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terre thaemlitz writings
執筆

ラヴボム/愛の爆弾
 
- テーリ・テムリッツ


Originally posted on comatonse.com in August, 2002. Accompanying text to the album of the same name first released by Mille Plateaux (Germany: 1/2003, MP117 [discontinued]), and replaced by a complete video adaptation with bonus materials and full audio CD self-released through Comatonse Recordings in both PAL and NTSC formats (Japan: Comatonse Recordings, 11/2005, D.001). (Video originally released on VHS Japan: Comatonse Recordings, 7/24/2003, V.002 [discontinued].) Click here to view original Mille Plateaux CD release artwork. Click here to view Comatonse Recordings DVD+CD release artwork.


 

Track Listing

  1. お帰りなさい(私達は時間に置いてきぼりにされた)
  2. 共感と同情の狭間にあるものは時間(アパルトヘイト)
    (Excerpt / 抜粋) 1:45 1.4MB MP3 128kB/s
  3. SDII
  4. SD
  5. ラブボム
  6. Sintesi Musicale Del Linciaggio Futurista(未来派の私的制裁の音楽的統合)
  7. 信号が錯綜するプロパガンダ(有りがちなつまらないラヴ・ソング)
    (Excerpt / 抜粋) 1:52 1.5MB MP3 128kB/s
  8. 平和と友情と連帯の我が歌
  9. 人類学的干渉主義
  10. 愛の爆弾(共感と同情の狭間にあるものは時間)
    (Excerpt / 抜粋) 1:45 1:43 1.3MB 128kB/s
  11. 愛の爆弾の愛のテーマ
    (Excerpt / 抜粋) 1:22 1.1MB MP3 128kB/s
  12. お帰りなさい(反復)
  13. ラヴボムのメイン・テーマ
  14. chng yourlove(愛を変えて)ボーナストラック

Internet Exclusive

    「愛の爆弾」のリミックス by Screech (UK)
    (Internet Exclusive - Complete / 完全) 6:53 6.5MB MP3 128kB/s

 
 宗教的愛。祖国愛。家族愛。友愛。チーム愛。キリストの、エホバの、アラーの、イスラムの、ヒンドゥー教の、仏陀の、ジム・ジョーンズの、オウム真理教の、ローマ法王の愛。自由への、金銭への、商業の、生活様式としての愛。狩猟的な、男/女漁りの、ナンパの、殺しの、性交への、叫びの、拳の、ナイフの、唾の、突き飛ばすことの、階段から転げ落ちることの愛。ビート(殴打)の愛。

 ビート(強いリズム)。「地球規模のダンスフロア」。 なんて無意味な縄張りの主張なのか。他の国家同様に、ハウス国家も「愛」のサンプルの集中攻撃でもって、ぼろ儲け、まずい契約、横領、搾取、麻薬、組織化された犯罪の雑音をかき消している。ライブ会場の所有者、プロモーター、オーガナイザー、パフォーマー、その他の関係者がすべて犯罪者だなどと仄めかすつもりはない。それどころか、この私も、コミュニティー建設の様々な幻想に動機付けられた良心的な多くの人々が持つ寛容さと思慮深さを持ち合わせていると申し上げる次第だ。しかしながら、制御された本質を採用することがそうであるように、幻想探究を満足させることも堕落を幽閉する行動と深く結びついている。クラブ・シーンの「互いを愛し合おう」という耳を聾[ろう]するほどの願いは、閉ざされた扉の向こう側で何ごとかが行なわれている、隠蔽された環境と切り離すことが出来ない。

 ポップ、カントリー、ジャズ、ソウル、R&B、クラシック……すべての音楽は「愛」でみなぎっている。「愛」過剰なまでに氾濫したこの言葉をもって、我々は疑問も持たずに愛を、その意味の支配下に委ねる。この英単語は英語以外の言語で歌われる世界各地の曲の中にも姿を現わす。同じように、ハリウッドが作ったアメリカ的な愛のマンネリズム、タッチやキッスは世界の至る所で見られ、あちらこちらで利益を生み出す。ここでも我々は、これらの事柄すべてをあまりにも性急に言葉の意味の支配下に預けてしまうこれは表向き、論破することが困難な(西洋的な)愛の万能さを容認することであろう。しかし、日本人の典型的なカップルの間にある「冷たい」遠慮や距離感を目撃した、平均的なアメリカ人の誰しもが気付くように、愛の周辺には、確かに文化的相違が存在する。日本人の若者の多くがハリウッド式の愛の方法を取り入れている反面、ユダヤ教・キリスト教両宗教に共通する性的抑圧と解放の西洋的モデルは性に関する意見や認識が鬩ぎあった複数のプロセスをほとんど説明していない。西洋的ヘテロセクシュアルおよびホモセクシュアルな行動パターンが地球規模で伝播しているにもかかわらず、愛・親密さ・情熱・接触・セックスは、我々が思い描くほど単一なもの(もしくはレズビアン・ゲイ・ストレートを三点とした三角関係的なもの)として扱われてはいないのである。これは本家本元の西洋文化においても言えることだが、仮にも愛が普遍的なものであるとしたら、パートナーシップを取り巻く個々人の期待がこれほどまでに限定されているのは、どうしたことだろうか。

 愛とは自分では説明のつかない精神疲労をどれだけ強いられても感情の一つというよりも、文脈上、特定の意味を持つ複数の変項を取りまとめる方程式の一つであろう。それが、公衆の面前で男女が手をからめ合う容認された愛撫であっても、閉ざされた扉の向こうで起きている不承認の振りかざされた拳の一撃であっても、人々に受容された無秩序な不均衡を有する数限り無いシステムの中に、この二つのパターンは共存している。カギを握る愛の要素の一つは、暴力の正当化だ。ほとんどの暴力は、自分が知っている人間から発せられるという単純さなのだ。我々は、他者と自己を結び付ける愛を表現できないままに、逃げ出したい気持ちを抱かせる自らの家族の縁故を内面化する。「それは絶対に愛じゃない!」と諸君は言うだろう……しかし、自らを深く掘り下げてみた時に、それが受動的であれ能動的であれ、はたまた用意周到であれまったくの偶然であれ、愛する(愛した)者が関与する精神的もしくは肉体的な暴力で、自己が全く傷つけられていないとしたら、自分は運が良いと思うべきだ。「家族」や「恋人」との社会的関係がいかなる方向に向かうと、他の環境下では容認されない言動が容易に化するかを、自らに問いかけてみよ。ある種の社会的関係に愛が存在すると推定され、この愛があるが故に、配偶者を殴る愛想の良い隣人の、子供を殴る親の、信徒に悪戯する聖職者の圧迫を見過ごしてしまうことになる。結局、産業革命以降の愛というのは、「公衆」と「個人」の空間の分割を促進する、ありきたりなイデオロギー装置に外ならず、不平等と排除という分割における基本原理と共犯関係を結んでいる。パートナーを見つけるプロセス自体は、事実上、理想の相手を探すというよりも大衆の排除という傾向が強い。

 陳腐で史的な唯物論者的言い回しで語るとすると、
人間が持って生まれた愛の能力と行動の表現方法として、結婚などの儀式を文化が開発したとする一般的な仮定は、実のところは、一つの文化における複数の唯物的な社会過程を表わす一方法としての、愛というイデオロギー機能の事後倒置の一つなのだ。この一般的な仮定に対する忠誠心が、文化・歴史・明日への活力となる愛のモデルに対する認識や必要なしでは廻らない、世界の密接な関係の会得を妨げている。例を挙げるとすると、ほとんどの(それもつい最近までは、ヨーロッパと北アメリカのほとんどを含む)文化圏では、結婚の歴史は、社会的ヒエラルキーを厳密化するために用意された取決めの歴史であり、服従の歴史であった。(同じ観点で見ると、シェイクスピア・ロマンスの「普遍的な魅力」という通念は、嵐の中で花開く愛への賞賛の中には存在せず、そこに存在するのは愛に対する文化的な前提条件という、決して気付かれることのない、自由を歪める悲劇なのである。シェイクスピア・ロマンスに対する最も「普遍的な」反応は、実際は退屈である、と加えても差し支えないだろう)。 中近東のある文化圏では、レイプ犯の男が被害者の女性に結婚を承諾させると懲罰を逃れられること、被害者のままであれば村八分になるか、一家の面汚しとして抹殺されるという現実に直面する被害女性にとって、これが必ずしもひどい申し出ではないこと等を考えるにつけ、家族を愛の所在地と仮定することはますます困難になってきていると思われる。南米のある文化圏では、妻が夫を侮辱した時には、夫の手による妻の殺害が法律で認められているところもある。日本では、家庭内のいざこざや幼児虐待のような「私的な問題」に警察が介在できるようになったのが、ここ2、3年のことであったりする。現在でも、自己申告した人類平等主義の要塞である西洋世界におけるパートナーシップは、人種・階級・社会的地位の排斥を、そして排斥の最たるもので疑問の余地もないジェンダーの排斥を、中心に据えている(ストレート文化への批判的な反応として発展したレズビアンとゲイのコミュニティーが、概して、ストレート文化で行なわれる同質の言動よりも暴力的な男漁り・女漁りの記号として看做される事実を知るにつけ、甚だ残念である)。

 家族の概念を民族国家の概念へと拡大してみると、移民のプロセスというのは、家族や恋人との絆を断ち切ったり繋げ合わせたりすることと同じくらい気力を奪う、体裁の悪い、入り組んだ感情と言えるだろう。移民は、昔のパートナーと別れたことによる安堵の方が、これから気付くであろう新しいパートナーの詳細に優ると思いながら、途中で自己治癒を施さないままに、一つの関係から他方へと即座に乗り換える。私が日本に移り住んだ件に関していえば、真剣で忠実な(ただしその文化を理想化することなしに)「永遠」に留まりたいという欲求をはっきり表明していながらも、その欲求が長期に渡る関係を継続する最も些細な要因の一つに過ぎないことを(充分過ぎるほど)承知している。外国人を「移民」ではなく「滞在者」と看做す日本は、手続き面でも社会的観点でも短期間の関係に焦点を当てている。ほとんどの文化圏においては、移民として到着するということは、恋人や家族が到着することと同じく、移民者自身の自己崩壊の恐れと、新たな社会における地位の獲得の両面を意味する。サルマン・ラシュディの言葉を噛み砕いて言えば、移民者の内部にある憤りと自負という相反する潜在的感情の中心部分に鎮座しているのが、表面上は無理だと思われる移民者による脅威という力の獲得(すなわち「しがらみからの解放」)なのだ。新しい家族に喜んで迎え入れられるために、移民者は、手にあまる先入観と病的な固執を巧みに操る曲芸を強いられるその曲芸がどんなにアンバランスであっても、既に移民者には背負わなければならない荷物があったとしても。

 クイアである自分が、家族の概念でもって愛の概念を組み立てるとは、本筋から脱線しているようではあるが、たとえばセックスに関連する事柄を考えてみたとしても、家族は「愛の営み」の受け皿として、最初に認められた環境として、相変わらず存在するという事実を無視することは出来ない。年端もゆかぬ頃から我々は、一つの連鎖的な命令を刷り込まれるべく、様々な情報にさらされている。すなわち、愛が結婚に、結婚が家族に、家族が愛につながるという法則がそれだ。セックスすなわち、排便やその他の「無関係な」肉体的機能と同様に目の届かないところに置いておく最も基本的な衝動の一つというミッシング・リンクに気付くのは、更に後になってからだ。合衆国の多数の州には、オーラル・セックスのように生産性のないセックスを有罪とする「居眠り」法が、相変わらず健在である。これらの法律は、撤廃する必要もない理想的な法律などではない。それどころか、特にゲイの男性を標的に、時によっては他の人々にも影響を及ぼす、性の多様性を否定する法律と言える。ソドミー法違反でミズーリー出身の夫婦が警察に連行されたのは、僅か10年ほど前の話である。妻は自宅の寝室で夫にフェラチオを行なっていた。それを見た良識ある市民(後にのぞき魔と判明したが)が警察に通報したのだった。

 確かに、性の抑圧は、驚異的な収益を生み出すセックス産業を通過することで、抑圧と同時進行すして結果的に生じる解放を見い出す。事実、文化の中で性的表現が限定されればされるほど、性の解放のイメージは強烈さを増すのである。日本のポルノグラフィーを考えてみると、明らかに脚色されたレイプのイメージ(出演者2人が合意の上で演技しているSMプレイ)や小児性愛(未成年者とのセックスや女子高生の制服へのフェティシズム)、ボンデージ、スカトロジー等の内容で、性器への検閲が過度に行なわれている。そのような内容は、日本人が実際にとる性行動の基本ではないにしても、平均的な日本の性風景に存在する場面となってしまった。また興味深いもう一つの点として、日本にはゲイやレズビアンのポルノグラフィーが、ほとんど存在しないことが挙げられる。こういった総ての状況を踏まえてみると、「ポルノグラフィー」が社会を堕落に導くものではなく、社会の抑圧が顕在化したものであることが明らかになる。(簡単に言えば、ポルノ産業界が経済的に当てにしているのはポルノに魅力を感じる一部の人たちと現状だけであって、新たな理想をもって購買者を募るという、浪費衝動を抑える上に時間のかかる無駄なやり方はしていないのである。)

 愛が友好的な文化交流全般を支える根源ではないことを受け入れても、友好的な文化交流はこれまでも存在したし、現在も存在している訳だから、包括的な文脈の中での共存を入念に計画する場合において、
愛は答えではないという意外な事実を無効にすることは出来ない。ギリシャ神話のヘレネ(性愛)からキリスト教の十字軍(宗教的愛)、ナチズム(祖国愛)、「無限の正義」作戦(自由への愛)まで、社会はこれまで闘争と征服の真ん中に愛を位置付けてきた。これらの多くは、不透明な正義という仮面の下に、より重大な文化レベルで実践すべき義務を隠蔽したのであった。9月のある朝に起きたテロ事件によって精神的・肉体的にトラウマを負ってしまった自国の人々に、湯水のごとく注がれた合衆国民の愛情に満ちた過剰な懸念、その一方で、合衆国軍による夜間攻撃の長期作戦で、イラク各地に何ヶ月にも渡って途絶えることなく続けられた爆弾投下の結果として生じる、現地の人々のトラウマに対する合衆国民の無関心さは、未だもって理解できないでいる(このように書くことによって、再び疑問が頭をもたげる)。自らの「愛情溢れる良心」でもって敵の心に「悪魔」が棲んでいると決めつけるようなことをやりながら、合衆国は、何十年にも渡る争いの火種の提供とでたらめな他国操作によって発生した問題を回避し続けている。でたらめな他国操作の一例として、サダム・フセインの軍備は、元はといえば合衆国がパーラヴィ王朝崩壊後のイランを抑圧するために、イラクに資金提供を行なったことがきっかけだったことが挙げられる。合衆国はこういった類いの独善的な性の「頂点」で、誰とでも喜んで同衾し、事の流れすべてを指示し、個人のニーズを様々な行動に組み入れようとするあらゆる「底辺」を拒絶するのだ。両者が期待の限界から解き放され、「底辺」の行動が瞬間的に「頂点」の役割に異議を唱える時こそ、テロリズムの概念が浮上してくる。このような行動は正しいと認めず、さらに前例がないとする「頂点」の事実上の主張は、素早く背中を叩くという過度の賞賛を表わす行動をその後に伴うのだが、すべての行動が「頂点」の妥協にによるものではないことを悟れない現実を明かにしている。「底辺」の自己愛から出現する行動もあり、トップの行動と同じく、相互依存という感覚に根付いているという訳でもない……特に社会的慣習が、意見交換の受容力を排除しているような場合には。


 
 2001年9月11日にニューヨーク、ワシントンD.C.、そして(既に記憶の彼方に埋没している)ペンシルバニアで起きたテロリストによる襲撃事件のような出来事は音楽業界を2つに分割するようだ。ほとんどの人々は、愛と喜びを呼び戻すために前以上に音楽や娯楽が必要だと主張する。しかし、私を含むその他の人々は、音楽と娯楽の大部分が取るに足らない筋違いのものだということを、こういった出来事が指摘すると主張する。更には、愛国心いっぱいの仲介を行なっている間、どれだけ多くの人が愛国主義者だけが暴利を貪る危険性を見誤っているのかを明らかにするのだ。

 愛と調和の歌よりも、矛盾する愛の相違の音に、私は憧れる。失恋の歌やトーチソングではなく、妨げられた戦略と何層にも重なった趣意に。約束、期待、勢いがほとんど存在し得ない音の中では、副産物としてより本質的な要素が生まれる。過去の愛を「清算」する試みをなしているにもかかわらず、今でも憧れている失われた愛の記憶、もしくは決して繰り返したくない忌わしい関係の記憶と、現在のパターンは衝突し合う。緊急を要する新たな欲求は、時代遅れのテーマ、サンプル、テクニックで埋め合わされる。使い古された言葉を引き合いに出す危険を承知で言うと、私は「多様性」を持った歌に憧れる。調和を欠いた衝突する多様性。このような多様性は、現在の社会を将来崩壊へと導く脅威とはならない。それどころか、将来的な崩壊は、それぞれの「聖なる合体」に仄めかされた積年の分離主義と不和の発生を反映したものであり、それによって社会の構成単位は、文化的な縮図へと縮小してゆくのだ。愛のように、何らかの公的権限を与えられるということは、それをいつどこで見つけるかなのである。すべては、断絶を映すあまのじゃくな鏡という訳だ。

テーリ・テムリッツ

 

1. お帰りなさい(私達は時間に置いてきぼりにされた)

    えーっと どうも みんな……
    説明する必要はない(……私は)
    ……私達は時間に置いてきぼりにされた

2. 共感と同情の狭間にあるものは時間(アパルトヘイト)

    ANCラジオ放送開始:こちらは自由ラジオ、アフリカ民族議会の声、時の試練を経た南アフリカの革命運動だ。迫害者からの圧力を取り去ろうする人々の戦いの先頭に立ち、最前線で戦う民衆の中から生まれた。アフリカ大陸で行なわれている解放のための戦いから生まれた産物である。

    ANC スポークスマン:我々にとって、自らの行動の推移は非常に明快だ。我々は反撃するのだ。裏切り者や操り人形らが取った妥協への道は、我々の欲するところではない。降服と従属も、我々の欲するところではない。すべて我々とは無関係だ。我々にあるのはたった一つの道。道は一つしかない。それは容赦のない戦闘の道。自己犠牲の道。戦争と栄光の道。今日の現実は、何年にも渡って起き続けたことだ。我々は、プレトリア警察という冷血な強盗殺人集団に殺され続けてきた。高値を維持するために食物が破壊され続け、我々の子供達は栄養失調で死んだ。我々が飢餓で死にゆく様を横目に、この国の富はすべて少数派の白人の手に渡り、外国人も含め、この国が豊かな国だと思い込もうとした。奴らは我々を、様々なやり方で抹殺してきた。肉体の抹殺だけでなく、奴らの下等な教育によって、我々の魂までも抹殺してきた。我々の民衆の反発力、降服の拒絶のおかげで、今日でも国内で戦いが勃発している。解放への戦いは続き、日々熾烈になってきている。今度は我々が武器を手にし、少数派の白人政権にしっぺ返しする番だ。我々は犬死はしない。道連れを見つけてやる。敵の反動的な暴力に、我々は革命の暴力で対抗する。武器は白人の家にある。どの白人の家にも、我々を攻撃するための武器が一つ二つ必ずどこかに隠されている。我々の母親は奴らの台所で働いている。我々は奴らの庭で働いている。奴らの家にある武器を慎重に探すために、出掛けようではないか。今となっては生きるか死ぬかだ。敵を攻撃するために、武器を見つけようではないか。都市部には武器を売っている猟銃店がある。当然のことながら、そこには複雑なセキュリティー・システムが入っている。しかし、そこでも我々の同胞が働いている。そのセキュリティー・システムを研究し、解除方法を覚え、武器を手に入れるための夜襲に備えよ。一人で夜警している警察官は標的となる。奴の武器を奪うために抹殺するのだ。郊外にポツンとある警察署はすべて、我々の武器調達を可能にするチャンスの場所だ。たとえ始まりは一丁の銃だとしても、それを使えばもっと多くの武器を手に入れられる。我々は攻撃の仕方、安全な退却の仕方などの戦法を学ばなければらならい。我々の居住区を巡回する装甲車とパトカーの待ち伏せの仕方を学ばなければならない。殺傷能力の高い自家製爆弾の作り方を学ばなければならない。工場も破壊行動の対象となる。生きているうちの勝利に向かって進め。我々に力を。

 愛とは……思い留まることを未だ知らぬ同情、テロ目的の同盟の力量に対する未遂に終わる否定。

3. SDII

    サミー・デイヴィス・ジュニア(以下SDII):私は懇願する。私のことを知っていて、私が何か話をしたがっていると感じている黒人のブラザーやシスターがここに一人でもいるのなら、お願いだから感情を抑えてくれ。この男の功績を冒涜してはいけない……。

    チャールズ・クラルト(以下CK):エンターテイナーのサミー・デイヴィス・ジュニアです。マーティン・ルーサー・キング牧師の殺害を知り、ショックと怒りに突き動かされたニグロが全土で暴徒と化し、略奪行為を行なっている最中、彼は人々に冷静さを取り戻すように訴えていました。

    SDII:わかっているよ、みんな。そうさ、みんな怒っている、怒りに震えている。でも今はこの怒りを抑えて、白人達が我々と同じ気持ちになるか、様子を見てみようじゃないか。

    CK:しかし、前年に起きた大規模なニグロ暴動の原因を調査した大統領依託を受けた委員会によると、「白人」はそうならなかったし、なる予定もなかった。

    アフリカ系アメリカ人委員会スポークスマン:白人団体がゲットーを生み出し、白人団体がゲットーを存続させ、白人社会がゲットーを容赦していることに我々は気付いた。そして黒人差別の証拠、黒人活動家による先導的な言動も発見したが、暴動を招いた本当の要因は何より我々を白人差別へと導いたのだ……。

 愛とは……友愛、人種差別によって隔離された領域へのアクセスを可能ならしめるパスワードの交換。

4. SD

    サラ(以下S):コンチワッ!
    父(以下D):おやおや、大きな声だね。優しく言えるかな?
    S:こんにちは……
    D:君は誰かな?
    S:私はサラ。
    D:サラっていうんだ?
    S:うん、そう。
    D:韓国生まれなの?
    S:そっ、で、今はわた……えーっと……わたしは、アメリカ人。
    D:よかったね。
    S:ねぇ、どうしてお父さんは……

 1976年頃に録音された父と妹サラ(3、4歳ほど)のこの短いやりとりは、この会話が収録されている90分テープの唯一の録音物だ。会話の主人公二人と私の間にあるつながりのせいで、二人が交わしているセリフに特別な思い入れを感じてしまうのだが、それでも私はこれは幼年期に文化的なアイデンティティーの刷込みが行なわれることを証明する興味深い記録の一つと捉えている。当時サラは「赤ちゃん言葉」と「ブロークン・イングリッシュ」がない交ぜになった言葉を話しており、彼女の一瞬の沈黙は言語の発展途上の証しというよりも、文化的位置付けの強要に対する葛藤の証しのように聞こえてしまう。

 愛とは……自身も不安を感じつつ、(少しばかり反抗的な論争を伴う)内面化の宣言を勝手に公言し、それによって拒絶されることに、(適切であることに加えて)他者である所以を求めること。

 ……もしくは、社会的相違の認知を、支配的なアメリカ文化のヘゲモニーへの誇りをもった肯定へと、常に回帰するように操作してしまうアメリカ的な「るつぼ」イデオロギーなのかもしれない。

5. ラブボム

    私に対してしたことが、私のような人間と一緒にいることで許されることが、彼等は気に入っていた……Love

    ……肌が生暖かさを感じた、厚みがあってネバネバしていた……彼等の顔はいつも笑顔だった……Love

    ……その頃メディアが、HIVがゲイ男性を席巻し始めたと報じて、何故か知らないけど「エイズバケツ」という名前をもらった。彼等は私に唾(つば)を吐きかけた、大抵は噛みタバコの汁が混じった唾だった。吐き気がするほど汚らしかった。いつも彼等が笑みを浮かべているのが見えた。私に対してしたことが、私のような人間と一緒にいることで許されることが、彼等は気に入っていた。

    奇妙なことはニューヨークに引っ越してからだった。夏になると、窓にマウントされたエアコンの室外機から落ちてくる水の雫を感じることがあった。雫が私の顔に当たった途端に、身体に染み込んだ条件反射が、出現したのだった……Love……つまり身体が一瞬痙攣するか、避けようとするかの。ちょうど、奴らが唾を吐きかけるのを避けようとした若い頃のように。

    雫は小型爆弾が降り注ぐように私の頭上に落ちてきて、それを受け止めるエイズバケツへと私を揺り戻したんだ。

6. Sintesi Musicale Del Linciaggio Futurista(未来派の私的制裁の音楽的統合)

    南部の木々に 奇妙な果実が実っている
    葉には血が 根にも血が
    南部のそよ風に 黒い身体がそよいでいる
    ポプラの木々にぶら下がる 奇妙な果実

    勇ましい南部の 牧歌的な風景
    彼等 目は突き出し 口は歪んでいる
    マグノリアの芳しさ 清潔で新鮮
    そして唐突に 肉の焼ける臭いが

    召しませ、この果実 カラスが餌にし
    雨が ふやけさせ
    風が しゃぶり
    太陽が 腐らせ
    葉が 朽ちて落ちるための
    召しませ 奇妙で苦いこの作物を

    (『Strange Fruit』 L. アレン著)

    「賢明さという恐ろしい殻を突き破り、大きく開けられ、ねじ曲がった風の口に誇りで熟した果実のように、我が身を放り込むのだ! 未知のものへ我が身を一つ残らず捧げよう。やけっぱちなのではない。世の不条理という深い井戸を満たすためだけに!」
    (『The Founding And Manifesto Of Futurism 1909』/
    1909年2月20日付けル・フィガロ紙 フィリッポ・トッマソ・マリネッティ著)

私の故郷、ミズーリ州スプリングフィールドの広場に信心深い白人の下層民が駆け付けたのは1906年の聖金曜日、復活祭の前の金曜日で、イエス・キリストがはりつけにされたことを記念する教会の祭日、のことだった。彼等が魅入っていたのは、地元刑務所の容疑者収監所からゴットフライド・タワーの足下に引きずり出された3人の黒人だった。このタワーは1908年に姿を消したのだが、聞いた話によると、このタワーは天辺に電色で飾られた自由の女神のレプリカがあった鉄筋製だったらしい。

    忍耐と愛に溢れた注意深さで、彼等は高いやぐらと鉄の引っ掛け鉤を準備した。
    (F.T. マリネッティ)

広場に隣接した営業中のラインズ・ミュージック店に、下層民の男の一群が入ってきた。彼等は、多分に命令口調だったと思われるが、店の経営者がオーク材のピアノ梱包用の枠箱を店の裏から動かしてもいいという許可をもらったと言った。これは1980年代に私の母親がラインズ家の一人から口伝えで聞いたものである。枠箱は解体され、板状になったオーク材をタワーの鉄筋に並べて絞首刑台が完成した。3人の黒人はリンチを受け、その後タワーに火が放たれ、彼等の身体は焼かれ、分断された。


 
    金属の廃棄物に塗れ、無感情な汗に塗れ、上質のすすに塗れ、我々は……地球上のすべての生物に我らの高尚な意志を宣言す:

    未来派の宣言書

    危険という名の愛を、力と恐いもの知らずの習性を、敢えて謳う。
    勇気、大胆さ、そして不快さが、我々の詩の重要な要素とならんことを。
    ‥‥
    攻撃的な行動を敢えて誉め讃える、熱に浮かされた不眠も、……死の跳躍も、殴打と平手打ちも。
    ……
    闘争の中以外に美しさは存在せず。攻撃的な性格を欠く作品は傑作にはなり得ず。詩は未知の権力に対する暴力的な攻撃と看做されるべし、それらを服従させ人間の足下に平伏させるために。
    ……
    我々は世界で唯一の衛生である戦争を、軍国主義を、愛国主義を、自由の提供者の破壊的な振る舞いを、死に値する美しい考えを、女性蔑視を讃える。
    我々は……論理主義、フェミニズム、すべてのご都合主義的な卑劣さと功利論的な臆病さと戦う。
    我々は謳う、仕事、喜び、暴動で興奮を覚える偉大な民衆のことを。
    ……
    芸術とは、実のところ、暴力、冷酷さ、不正以外の何ものにもあらず。
    (F.T. マリネッティ)

 いや、20世紀直前の世紀末に合衆国南部の田舎町で起きた事件と、イタリアで台頭し始めた未来派の比較を伊達や粋狂でやっているのではない。両者とも両地域にあった時代遅れの偏狭が元凶なのだ。私は生を芸術で模倣したい訳でも、その逆をしたい訳でもない……ただ、音楽市場という領域の中で同じことをする見込みを問題にしているだけである。

 アメリカで起きた3人のアフリカ系アメリカ人に対するリンチと、未来派の音楽作品にある、様々な抽象概念の間の相互関係を見い出そうとすることには、物事を過度に単純化する志向が介入する危険がある。しかし、ピアノの枠箱の板の端に人をのせて行なった殺人や、引き摺られる板の音や、当時の状況に不釣り合いな事件へと発展するスケール(「音域」という意味でも「渡し板」という意味でも)の爆発を導くために引っ張られて軋むロープの音など、偶然の一致という中立性を打ち砕く必要を感じざるを得ない。音楽的なつながりですなわち美意識に支えられた文化的産業の一つとしてピアノの枠箱を見た時、枠箱の板は殺人を行なう装置を形作った材料としての存在と、抽象化された死、もしくは便宜的に忘れ去られた死を具体化する存在として、つながるのである。

 使い易く改良された楽器を未来派が公然と非難する一方で、ピアノだけは未来派の作曲の中心をなすものとして残された。私は思う、マリエッティと彼のお仲間は1906年にスプリングフィールドで起きたピアノを使った究極の出来事それこそ『未来派の私的制裁の音楽的統合』であろうを知っていたのだろうか。彼は1909年のミッションが、既に時代遅れだと捉えられることを予想しただろうか。創造的な身振りこれは現在でも相変わらず多くのミュージシャンやアーティストたちの情熱だと、巧みに処刑が実行された瞬間の梁からぶら下がった死にゆく身体と、それに反射する下層民が怒りに任せて振り回す腕の不条理な身振りの間にある相互関係を、空想したことがあったのだろうか?

    彼等は我々に向かってやってくる、我々の後継者に向かって、遠いところからやってくる、あらゆる方角から、最初の歌の高速にして、的を得た拍子に合わせて踊りながら、捕食者の曲がった爪をさらに曲げながら、朽ちてゆく我々の心が発する強烈な悪臭を、学府の扉の前で犬のように嗅ぎ回りながら、それは学問上のカタコンベが約束されているであろう。
    ……うずくまった我々を彼等は目にするだろう、我々のイメージから火が取り除かれた時、今日の我々の書物が点す幽かな炎に手をかざして暖めている瞬間を。
    彼等は我々の周りで嵐を巻き起こすだろう、軽蔑と苦悩で息も絶え絶えに、そして彼等はみな、我々の誇り高き大胆さに激しい怒りを感じながら、我々を殺すべく衝突してくるだろう、執念深ければ深いほど、彼等の心は、我々に対する愛と賞賛でますます酔いしれてしまう憎しみに突き動かされて。
    強さと正気さで、不正は彼等の目の前で燦然と打ち砕かれるであろう。
    (F.T. マリネッティ)

 未来派とファシズムの関連性を過剰に単純化するのは、簡単なことだ。それが、事実上の力関係を欠いた未来派の単なるそぶりを、学芸歴史家が熱心に保存しているだけだとしても、その逆だとしても。今日、ファシズムという言葉自体は、寛大な民主主義世界から生まれた間違った道徳原理で、負荷がかかり過ぎている。ファシズムを永遠に断罪してしまった民主主義世界は間違いであり、事実、ファシズムに対する現代の批判のほとんどが左翼や共産主義グループから発せられたもので、民主主義世界によって長い間葬り去られていたのである(このように葬り去られた原因の一部には、共産主義者もファシストも、もともとは労働者階級の支援を得るために競合したことが挙げられ、そのためブルジョアが中核をなす民主主義世界では、共産主義者が行なうアンチ・ファシストの宣伝活動は、単純に労働者階級を二分にするに過ぎないと思われていた。後にファシストの州が台頭した後ですら、彼等の危険性は民主主義社会では見過ごされていた。というもの、彼等は個人にも企業にも収益を上げる、この上なく素晴らしい機会の数々を提供したからである。もちろん、伝統的に共産主義的な地域では民族浄化の歴史は今日でも続いている。忘れてならないのが、ほぼ成功をおさめたアメリカ原住民の大量虐殺、1921年5月31日オクラホマ州タルサで起きた民族浄化誰しも大虐殺が可能な偽善という同じ海に浮かんでいる)。 マリネッティやその他が、暴力というアイディアをよりブルジョア的で抽象的な遊びにすることを好んだこと、そのためムッソリーニ政権下でイタリア芸術として公認された頃には、左翼の人民主義者との絆を本質的に断ち切ってしまっていたことによって、未来派とファシズムの関連性は切れ切れになってしまっている。しかし、未来派主義者を、暴力なしの哲学的実践を約束しただけの単なる怠け者と決めつけるのもまた間違いである。例えば、マリネッティはイタリアのリビア侵攻を支持したことで有名だし、マリネッティ、ボッチオーニ、サンティエリア、シロニは全員1915年のガララーテ(イタリア)でボランティアとして参戦した。

    神話と神秘的な理想はついに挫折を迎えた。我々はもうすぐ目撃するだろう……天使達の初めての戦いを!
    (F.T. マリネッティ)

 リンチの後、恐怖に支配されたスプリングフィールドの黒人コミュニティーでは、3日間家の外へ誰一人、一歩も出なかった。その直後、このオザークス地域からセントルイスやカンザス・シティーなどの北の都市へ向かって黒人達が一斉に町を脱出した(黒人版キリストの復活というイメージだろうか。この3日間というよく物語に登場する日数が、果たして実際の史実に則ったものなのか、3日後に復活することを全住民が知っているキリストのはりつけを記念した日の殉職、その後に北部へ大移動するというこの事件の流れの、キリスト教的色彩の強さによって、歴史的な物語には付きものの詩的表現が加味されたのか、疑問が残るところである。しかし、イースターサンディーの後の静けさが、脱出の道を開いた可能性はある)。 大移動はもともとは自己の保存のためであったが、反抗とボイコットという相乗効果も生み出した。リンチ前のスプリングフィールドには黒人が経営する活発なビジネス・コミュニティーがあり、町一番の雑貨店もそこに含まれていた。黒人コミュニティーが当時の南部の偏狭な病的気質に曝されていたことは明らかだが、そのようなコミュニティーが従属的で、貧乏で、無秩序だと決めつけるのは、間違った特徴付けと言えるだろう。事実、黒人・白人両コミュニティーのメンバーが、アンチ・リンチのキャンペーンやその他の市民権のキャンペーンに参加していた。1906年の事件後、ほとんど黒人コミュニティーが消失したスプリングフィールドは、町の表情が劇的に変わってしまった。人種偏見に凝り固まった偏狭者たちは平常を取り戻し、彼等の思惑通りの変化だと宣伝したことは想像に難くない。その後40年くらいの間、地元のフェアやお祭りで商人達はブリキにある刻印を押した厄よけのお守りを作った。その刻印とは「広場に3人の黒んぼを吊せ、1906年」 今日、少数の流入があったにもかかわらず、スプリングフィールドの黒人コミュニティーは、町の大きさに不釣り合いなほど小さく、地理的にも町の北西部に隔離されている。

    死、飼い馴らされ、曲がるたびに出会った……濁水の中から私にベルベットの愛撫のような目を向ける……自分のしっぽに食らいつこうとする犬の狂乱さで車をスピンさせた、そこに、突然、二人のサイクリスト……私の道を塞ぐちくしょー、痛い!……少し停まったら、うんざりしたことに、車輪が中に浮いた格好で回転して溝にはまってしまった……ああ、母なる溝、ほとんど泥水でいっぱいになっているではないか!……私はあなたの栄養いっぱいの泥を飲み込んでしまった;そしてスーダン人看護婦の豊満な黒い胸を思い出した……私が横転し、破れ、汚れて、臭い、車の下から出た時、喜びの白く熱いアイロンが、芳しく私の心を通り過ぎるのを感じた!
    (F.T. マリネッティ)

 (黒人風の顔色をした贖罪のイメージか?) 町に残った黒人コミュニティーがリンチのことを覚えている反面、白人のほとんどが最終的にこの事件を忘れてしまった。しかし、2002年8月3日、広場の南東部に既にあった、書物を象った歴史標識に金属のプレートが備え付けられた。そこには「1906年4月14日、ホラス B. ダンカン、フレッド・コカー、ウィル・アレンが、裁判なしにリンチされた」と記されている。歴史標識を訂正するという市議会の決定は、市議会議員デニー・ホエイン(黒人男性)によって密やかに準備され、1990年代半ばから同じような要請を出しつつもずっと拒否され続けてきた町の全国黒人地位向上協会(NAACP)から、一人の関係者も入れずに行なわれた。地元の新聞雑誌の反応は概ね好意的だったが、この事件に関する話し合いは、「過去を振り返ろう」そして「未来に向かって顔を上げよう」(未来派が理想としたものの変則的な盗用か?)のような言葉に代表される白人コミュニティーの告白と償いという非常に安全な範囲内に納められてしまった。ホエイン自身も「この微妙な問題を寝かしつけたら、みんなの生活が向上するだろう」という言葉で、戦略的に「忘れる」ための記念碑を意図したことを述べていた。(ほとんどの政府主導型芸術では、後の評価はこのようになる「我々のイメージの経過から(未来の本が)火を取り除いた時、今日の我々の本が点すであろう幽かな炎」とマリネッティも言ったように、時間の経過とともにインパクトが減るように計算されている)。

 古傷を広げられたくないという思いから、黒人・白人両方のコミュニティーにこの記念プレートを承認しない人がいた。私が目にしたこと、それに、スプリングフィールドで私自身が経験した暴力を考えると、これらの奇妙な果実の種は、相変わらず散乱したままだと思わざるを得ない。私が思うに、黒人の古傷を広げられたくないという思いは、現在の傷にも塩を塗る恐怖とつながっているだろうし、その点ではもっともなことだと言えよう。黒人コミュニティーの他のメンバーの中には、3人の黒人男性が無罪だったことを明言しないプレートでは充分ではない、と感じた人もいた。その他に、3人個別の記念碑を一堂に並べて作ることを要求した人もいた。このアイディアに私も賛成だ。それというのも、このような悲劇を記念碑に加えることで、強烈なイデオロギー的弱点が露わになる訳だから、事件を記念することは、町の成長へつながるだろうからである。これによってあらゆる種類の邪な人種差別主義者の解釈にドアが開かれ……このプレートはある時点で数十年前の金属のお守りに押してあった刻印の文字を思い起こさせ、「広場に3人の黒んぼを吊るせ」という言葉が、マリネッティ自身の唇から受け継がれた詩として受け入れられるまでは、洗練され、美化されることだろう。

    悲しいかな、我々に忌わしい言葉を再び言う人は誰しもが!
    (F.T. マリネッティ)

 「Sintesi Musicale Del Linciaggio Futurista(未来派の私的制裁の音楽的統合)」はマリネッティの声(イタリア語)を録音したものを使っており、「Definizione Di Futurismo (未来派の定義)」、「La Battaglia de Adrianopoli (アドリアノポリの戦い)」、「Sintesi Musicali Futuriste (未来派の音楽的統合)」から抜粋したものだ。同様にピアノの異形は、フレンチェスコ・バリーラ・プラテーラのピアノ曲「Giorno Di Festa(祭りの日)」とL. アレンの「Strange Fruit」から。使われた様々なデジタル・プロセスの中でも、「Giorno Di Festa」と「Strange Fruit」にはクリストファー・ペンローズが開発した「Codepend 相互依存」というプロセスが使われており、それぞれのファイルが総合的なアウトプット・オーディオ・ファイルに貢献している(独特のコントローラーや、ターゲット・ファイルが存在するヴォコーディングや、それに類似するプロセスと対称を成す)。その後、アウトプットのピアノ・サウンドは編集され、マリネッティの声を録音したものと一緒に再び「相互依存」され、その結果として、彼のオリジナルの声と録音・編集された音声とかミックスされたものが、ここにある。ある一定のところを過ぎると、マリネッティの声は、カット技術によって「Hung Three Niggers In The Square(英語)」のフレーズを形成するように、個々の発音がアレンジし直されている。

    我々の当てにならない知性が、我々は祖先のリバイバルであり、延長だと教える、たぶんそうだ!……そうであったらどんなにいいか!
    (F.T. マリネッティ)

 スプリングフィールドの歴史標識にプレートが加えられた同じ週、イタリアのカグリアリという町で、匿名の文化機関によって操作されている地元の若手ファシスト同盟が、未来派を讃える会合を開いた。会場の外壁に貼られたものは、マリネッティの「未来派の宣言書」だった。


 

7.  信号が錯綜するプロパガンダ(有りがちなつまらないラヴ・ソング)

    チェコのラジオ局のアナウンサー:こちらはチェコスロバキアの合法自由局……Love……ルーマニア、ユーゴスラビアにあるラジオ局全てに伝えます、チェコスロバキア社会主義共和国の現状についての、情報を流してください。世界中に、真実を伝えて下さい。こちらはチェコスロバキア社会主義共和国の人民……。

    ラジオ・モスクワ:……Love……時間を無駄にせず、確実に、意図を持って行動することが重要だった。チェコスロバキアにおける社会主義の防衛が、チェコスロバキア国民よりも優先される。つまり、これは社会主義国家すべてのコミュニティーの防衛なのだ。この理由により、我々はチェコスロバキア国民を助け、社会主義を保護する。リーダーシップの(ディヴィジョニスト的?)要素の不実が、チェコスロバキアの社会主義を危険に曝したのだった。

    チェコのアナウンサー:……それは間違いだ。

 愛とは……自己正当化されたプライバシーの、内側からの侵害、自己正当化されたプライバシーの、外側からの承認。隣人の壁から漏れ聞こえる、救いを求める、拾われることのない声。

8. 平和と友情と連帯の我が歌

    葛藤、力、戦争、人種差別、爆弾、戦争、戦争、戦争、殺人、スコア保持、戦争、爆弾。
    憧れ、疲れて悲しい、歴史からなくなることのない戦争の悲劇。

9. 人類学的干渉主義

 ラブソングはどれも人類学の作品。物理的・精神的な特徴、分類、習慣など人間にまつわる分析の一つ。そして、ほとんどの人類学の調査がそうであるように、ラブソングの典型的な書き始めは、終わりを望むところから結論、相違の要素、男女の違い等など。他人に対する我々の偏見の、他人の手による考証と確認を通して、社会における自分の特別パターンが肯定される時、聞き手として、そういう歌を、心のうちに抱え込む。至福の外部的な根源を探ったり、もしくは自分の心にある拷問を探ったりしながら。

 恋人達の歌を作るなら、もっと干渉主義者的アプローチで行なうことを、ぜひお勧めしたい。道端に、「普遍性」と「固体性」の両方を配置しよう(恐れることはない、君の客観性はそのままだから)。現場に出動するんだ。恋人達を観察して、記録を取るんだ。現場での自分も観察して、記録するんだ(覚えておいて、人のいいの自然主義者ですら、野生の音と画像を記録している時には、時として「餌まきの段階」を設定するし、彼・彼女以外のものがその餌に釣られるんだから)。 その後で、編集ラボに戻り、自分の心の物語りを構築するために、発見したものをふるいにかけ始める。この編集室で、君は気付く、還元主義を辱める以上の場所まで、到達するラブソングなんてないのではないか、と。どれもこれもヒステリーをなだめるための、余剰な構築物であり、我々の感覚をなだめるための、委任された侮辱なのだ。もちろん、ラブソングの、魅惑的な普遍性のイメージは、精神を侵略する暴力の、最も有効な行為である。


10. 愛の爆弾(共感と同情の狭間にあるものは時間)

    女1 「わかりました……」

    女1 「あっ、そうですか。はい、わかりました。」
    男 「それはね、大きな乳房いうのが印象に残っとる。
    大きな乳房を出して……」
    女1 「赤ちゃんを……」
    男 「赤ちゃんは、抱いとるということよりか、
    赤ちゃんを抱いとったんだろうけど……」
    女1 「抱え込んどるいうことですよね?」
    男 「乳房、食らいついて死んどるわけよ。」
    女1 「あっ、そうですか。」
    男 「くっついて死んどる、そこに……」
    女1 「わかりました。おじいちゃん、わかりました。
    わかりました、おじいちゃん。はい、わかりました。
    かわいそうねぇ。ねぇ、かわいそうですね。
    かわいそうね。
    ねぇ、かわいそうですね。
    かわいそうね。」

    女2 「たくさんの人です。
    みんな傷ついた人。ぜんぶ裸です。
    血が着物のような人もいました。
    大きいな声で、一生懸命に、おらんで泣いて行きます。
    『私の兄の顏を見てやってくれー』
    『私の兄の顔を見てやってくれー』と言うのです。
    兄と云うのは五年生ぐらいで、
    その顔と云うのはめちゃくちゃで、目もない。鼻もない。」

    女1 「分かりました……」

 支離滅裂さ加減さを共有する、生存者同士の共感は、我々の同情に痕を残す。道徳観歴史に歪められた時は、過去の出来事の上に、論理を刻み付ける。最後の生存者がいなくなるまでは、彼等の経験から我々が学ぼうとする教訓が、明確になることはない。彼等の死をもってして、社会が共有する懸念が、永遠に過去へむかってのび、時間の観念を失った目的意識と、癒着する。村八分、否定、恐怖、無視の対象にとしての生存者を、忘れるには彼等の死しかない。我々は、自分達の理解の支離滅裂さを共有しながら、真の生存者になるだろう。我々は、ホロコースト(レイプ、拷問、虐殺、飢餓など)の生存者に対して、永遠の愛を感じる、邪な感覚で溢れるだろう。そして、はからずも、誓ってしまったはずなのに、既に忘れてしまっている事柄を決して繰り返さないことを、永遠に自分に懇願するだろう。

 愛とは……距離によって弱まった同情。



 

11. 愛の爆弾の愛のテーマ

    ……暴力はいらない……

12. お帰りなさい(反復)


    時……昨日死んだ。
    (F.T. マリネッティ)

13. ラヴボムのメイン・テーマ

 愛とは……ヒステリーをなだめるための、余剰な構築物であり、我々の感覚をなだめるための、委任された侮辱なのだ。ラブソングの、魅惑的な普遍性のイメージは、文化を侵略する暴力の、最も有効な行為である。断絶のあまのじゃくな鏡という訳だ。