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terre thaemlitz writings
執筆

不産主義
 
- テーリ・テムリッツ


このテキストは29年10月26日に、comatonse.comで掲載された。アルバムDeproduction / 不産主義 (日本:コマトンズ・レコーディングス、2017、製品番号:C.027)のテキストの抜粋文。翻訳:吉田泉(テキスト)、新井知行(要約)。

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要約

翻訳:新井知行。

私たちの生きるこの時代、支配的なLGBT運動の主張はますます家族、婚姻、繁殖、兵役といったテーマをめぐるようになっている。こうした問題をめぐる社会的分析や組織化のための文化的条件は、核家族、私的・公的空間という奇妙なまでに西洋人間主義的な概念への積極的な屈服を要求する。その結果、家族構造のフェミニスト的・クィア的で批判的な拒絶を目にすることはますます稀になってきている。家族内・家庭内暴力を、より大規模でより制度化された支配の徴候として理解することは、ほとんど不可能になっている。

今日のクィア・ファミリーに、いかにも一般的でヘテロ標準的なやり方で与えられている待ちに待った約束は、家族の野蛮は今の世代が前の世代よりもましであることによって乗り越えられるという自己中心的な考え以外の何ものでもない。いつまでも不在なのは、親にならないという意志を持つことの意味に関する議論である。それは依然として、中絶による解放を祝福することと同様に、タブーとされている。

オーディオ、テクスト、ビデオを用いるマルチメディア・プロジェクト『不産主義』でテーリ・テムリッツは、家族という西洋人間主義的な概念の背後にある厄介で不快で偽善的な権力の力学を、そしてそれがグローバリゼーションのプロセスを通してどのように国際的に機能するかを探究する。

これまでの作品でテムリッツは、私たちが民主主義的な社会計画の歴史的終焉を今まさに経験しているのだという仮説を立ててきた。資本主義と民主主義が本質的に結びついているという冷戦期の前提は過去のものである。西欧の奴隷制の歴史、そして非民主的諸国で現在進行している資本主義的経済活動の拡張からも分かるように、資本主義は、平等な労働よりも奴隷制とよりよく調和する。資本主義のこの蔓延ぶりは、新しい民主主義国家が全く設立されないという事実と表裏一体である。一方で、国家・国民の敵と伝統的に見なされていたものは、概ね一族・教義の敵に取って代わられた。こうした全ては家族、支配者の一族、生得的なるものの力を再復興するものである。

民主主義的諸国では、このことは、セクシュアリティとジェンダーを生物学的な先天性に帰する本質主義的主張に基づいてLGBTの権利を法制化するという身振りに現われている。古き日の貴族のように、私たちはいつの間にか自分の権利主張を自分の血に基づいて正当化しているのだ。トランスセクシュアル・コミュニティでは、権利主張--医療へのアクセスを含む--はしばしば性同一性障害(GID)として正式に診断されることと不可分である。精神障害者、病人としての自己同一化が、文化的イニシエーションと承認のための儀式となる。それはまた、文化的推進力とノーマライゼーションの鍵となるのだ。

テムリッツの問題提起は、トランスジェンダー・コミュニティにおける文化的推進力と精神障害のこうした関係と、西洋人間主義的価値観、とりわけ旧来の氏族的・大家族的家族構造へのそのあからさまな敵意をめぐって--西欧はこの矛盾を神経質に否認し、それに対して目を閉ざしているのだが--グローバルに共有された違和感が表裏一体であるというものである。しかも、家父長制のもとにジェンダーを一致させる身振りとしての性転換を要求されるという文化的・反フェミニスト的妥協は、資本主義の拡張を要求されるという文化的・反民主主義的妥協と表裏一体である。西欧内外で、ラディカルなクィア主義に対する検閲は民主的な組織化に対する検閲と絡み合っている。そしてどちらの問題の中心にも横たわっているのが、性的表現、繁殖、コミュニティの存続、自己の存続のための公認の文化的な場としての家族なのである。

『不産主義』は、文化的生産と生物学的再生産の間のこうした対立を探究し、再生産しないことを選ぶ人々の文化的擁護を提案する。これらの分析はテムリッツ自身の非本質主義、全性愛的クィア主義、性転換を伴わないトランスジェンダリズムによって方向性を与えられるだろう。テムリッツはこのプロジェクトに、永住権を持ちスタジオがある日本で取り組み、それを2017年にドクメンタ14の支援を得てアテネで初演する。


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オーディオ

  1. 登場人物は仮名(近親相姦ポルノのための音とテキスト)
    Names Have Been Changed (Sound/Reading for Incest Porn)

    Duration: 00:43'00 (h:m's) 48k/24bit AIFF
    (Excerpt / 抜粋) 1:00 986K MP3 128kB/s

  2. 苦しみのもとを認めよ(そして立ち去れ)(ゲイ・ポルノのための音とテキスト)
    Admit It's Killing You (And Leave) (Sound/Reading for Gay Porn)

    Duration: 00:43'00 (h:m's) 48k/24bit AIFF
    (Excerpt / 抜粋) 1:00 986K MP3 128kB/s

  3. Bonus: Admit It's Killing You (And Leave) (Piano Solo)
    Duration: 00:14'10 (h:m's) 48k/24bit AIFF
    (Excerpt / 抜粋) 1:00 986K MP3 128kB/s

  4. Bonus: Names Have Been Changed (Sprinkles' House Arrest)
    Duration: 00:10'41 (h:m's) 48k/24bit AIFF
    (Excerpt / 抜粋) 1:00 986K MP3 128kB/s

  5. Bonus: Admit It's Killing You (And Leave) (Sprinkles' Dead End)
    Duration: 00:14'39 (h:m's) 48k/24bit AIFF
    (Excerpt / 抜粋) 1:00 986K MP3 128kB/s


ビデオ

    Deproduction
    (EN) Duration: 01:16'00 (h:m's) HD Video 1920x1080 48k/320kB/s Audio
    不産主義
    (JP) Duration: 01:16'00 (h:m's) HD Video 1920x1080 48k/320kB/s Audio

テキスト

    Deproduction
    (EN, JP, GR, DE)


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不産主義、第1章
登場人物は仮名
近親相姦ポルノのための音とテキスト

翻訳:吉田泉。

レイコ

レイコは高校3年生で、シングルマザーが主人公の新しいテレビドラマを見ていた。去年見ていたのは、15歳の母がヒロインのドラマ。今回のヒロインは20代女性。主人公は常に美しく控えめで、時に混乱もするが、最後には母性本能ですべてに打ち克つことができる。子供たちは、その尽きることのないエネルギーに疲れ果てるママたちをコメディタッチの音楽とともに描く短いシーンを除けば、かわいらしく、物静かで、深遠ですらある。シングルマザーであることは明らかに大変だが、それだけの価値があるものだ。どんな問題が起きようとも、強い心と家族の愛情ある支えで乗り越えられる。シングルマザーの抱える問題への解決策は、公共の領域からはもたらされない。日本女性の私生活は変化しているが、公共の社会は不変である。日本の家族のかたちは変化しているが、家族の重要性は不変である。ドラマの次は夜のニュース。北朝鮮がまたやった。「悲しいことね」とレイコの母が言う。「北朝鮮の人たちは、小さいときから政府のプロパガンダに洗脳されているから、何がほんとかわからないのよ」

ゲイリー

ゲイリーが2年越しのパートナーとの間でコンドームの使い方を間違えたとき、彼は23歳だった。彼が射精後も彼女の中にとどまっていたため、精子がコンドームの根本から漏れ出して彼女は妊娠した。2人はいつも避妊に失敗したときは中絶をしようと話していたが、彼女は中絶を拒んだ。彼は赤ん坊を産まないよう彼女に頼んだが、それは彼自身のためであるとともに彼女のためでもあった。しかし、最終的には彼女の選択だ。ゲイリーはその選択を尊重するほかなかった。同時に、彼は、望まれずして産まれた子の父親役を演じる気にもなれなかった。彼は、悪意に満ちた家庭は健全なものではないとわかっていたので、彼女に、どうしても赤ん坊を産むというのであれば、1人でやっていってくれと話した。そうして2人は別れた。出産後、彼女の弁護士がゲイリーとの父子関係を確定させ、給料から養育費が自動的に差し引かれる状態が始まった。それから15年が経ち、残りあと3年。

ポーラ

ポーラと夫が子どもを持つことを決心したとき、ポーラは30代前半だった。医者たちは、彼女の病歴に照らすと妊娠には危険が伴うと警告したが、彼らが望んだのは、ひとりの健康な子、それだけだった。たったひとり。すべての善き行いをしよう、そうすれば、家族の小さな巣は完全なものとなるだろう。すべてはまったく順調にみえた。彼女はあっけなく妊娠し、すべての出生前診断は、何の問題もない女の子の赤ちゃんであることを示していた。小児科医が彼らに想定外のことを告げたのは、出産からわずか数週間後だった。彼らの子はダウン症だった。思い描いていた未来を失うことによる当初のショックと荒廃状態を過ぎて、両親はともに地元のダウン症支援グループに参加するようになった。我が娘が完璧な存在であること、どれだけ大きな贈りものであって、純粋かつ愛され望まれた神の御心であるかということに、両親は再び思いをはせられるようになった。いまではポーラは「ダウン症に祝福を」と書かれたバンパーステッカーを親戚や友人に配っている。

ミチコ

ミチコが妊娠したとき、彼女は30代だった。長い交際ではなかったが、もう落ち着くべき歳だと感じていたので、彼女は彼と結婚して仕事を辞めた。プロポーズへの彼女の承諾は、彼のプロポーズと同様、まったく機械的なものであった。最新のトレンドをすべて取り入れた型通りの結婚式。ローンを組んで買った建売住宅。出産とともに基本的にセックスはなくなった。最初の1年間、3人は1つのベッドで寝ていたが、その後、夫はもっと睡眠をとるため別室へ移った。わずかとはいえ性的な緊張感の残る夜がなくなり、ミチコはいろいろな意味でほっとして、子どもの世話に没頭した。7年経って子どもが小学校に上がり、彼女は以前より自分の時間があることに気付いた。退屈でしょうがなかった。夫に恋人がいることは確かだった。それで、彼女もオンラインで恋人探しを始めた。ただの遊び。家庭を壊すつもりなんてさらさらない。外人なんかいいかも。

サルマ

サルマは29歳で、娘は7歳。娘の「バケーション・カッティング」の準備をすべき時が来た。女子割礼のための特別な女の子の旅だ。世界保健機構が無感情に「タイプ2 女性器切除(FGC)」と呼ぶところの、クリトリスと内陰唇の切除。サルマと娘は、ミネソタ州の寒さからフロリダ州の暖かさへと、そしてサルマが娘のために望むものを理解してくれる女医の暖かさへと、飛行機でひとっ飛びするのだ。皮肉なものだ、とサルマは感じる。娘が健康で女性らしく、社会に受け入れられるようにと望むことが、同時に彼女のコミュニティを世界全体から隔絶させるなんて。これは女の問題なのよ。彼女自身もそうやって清潔で健康な女になったのだから。何の問題もなく美しい娘を出産し、その娘は健康そのものの人生を送っていることで証明されている清潔さ。メディアが自分と夫のような両親を愛情のかけらもないモンスターとして描くのを見たが、サルマは、真実はその真逆であると確信していた。この旅は、まさに娘が愛情のかけらもないモンスターに育つのを防ぐためのものなのだ。


 
クレイグ

クレイグは自分のパイプカットをとても気に入っていた。パイプカットのおかげで長年のパートナーたちとここ何年も性的な自由を享受できていることや、自分自身で完全に避妊の責任を取ることができるのも気に入っていた。それに加えて、彼は、その処置のことを知った女性の幾人かが最初に示す、奇妙で、ばかばかしいほどの反応に、いつも魅了された。コンドームを使いたくない男が口にするでまかせだと思って、最初は彼のことを信じなかった女性もいた。去勢や男性ホルモンの喪失と混同して、彼のことを勃起不全であるとか、実体のない干からびた射精しかできないのだろうと推測する者もいた。自分を妊娠させる能力もない男とセックスするなんて、考えただけでもぞっとする、と言った者もいた。妊娠を望んでいるわけでもないのに。彼女たちは、女性が子宮摘出を受けるほうがまだ意味が分かる、と断言した。そのほうがより複雑でリスクも高い処置なのだが。幾人かは、彼を精神的に病んでいて我儘だと言って、あなたは「病気」よ、いつの日か赤ん坊が欲しいという若い女性に出会ったらどうするつもりなの、と彼を問い詰めた。おかしなことに、女性たちも皆、最後はパイプカットを気に入った。彼に有罪を宣告しておきながら、あっという間にその判断を投げ捨てる人々の様子をみて、彼はいつも滑稽に思った。

アンバーとジャスミンとコリー

アンバーとジャスミンとコリーは、排卵誘発剤により産まれた三つ子だ。彼らのママ2人は笑いながら言った。「3分の1は計画通り、3分の2はびっくりだったわ!」。24歳になったいま、3人は、レズビアンのコミュニティにおいて体外受精の多胎出産が高い確率で起きることの社会的影響について、共同で学士論文を書いている。子どものころ、たまに彼女らは自分たちと同じような子たちに出会った。たいていは双子だった。その子たちと正式にネットワークを築いたのは大学に入ってからだ。その子たちとともに、彼女らは、少女たちの摂食障害やジェンダーをまたいで起きる抑鬱症のパターンを発見した。そのうちひとりは自殺するに至った。すべては、目先の結果のために多胎出産のリスクを冒す欠陥だらけの不妊治療業界に依存しつつも、個人主義を育もうという、レズビアンの努力の矛盾に由来していた。ジャスミンは、来るべき危機のために「同時交差する体外受精の均質性」という新たな用語をつくった。


 
デビー

妊娠したとき、デビーは15歳だった。彼女の家族は2年前にウィスコンシン州からアーカンソー州へと引っ越してきた。彼らは白人で、近所も皆そうだった。デビーより2歳年上の息子がいる黒人の一家を除いては。その息子が子どもの父親だった。彼の家族はデビーが中絶することを望んだが、敬虔なカソリックである彼女の家族にとっては検討の余地もなかった。里子に出すことが唯一の選択肢だった。彼女は、母親になるには、赤ん坊で人生を台無しにするには若すぎた。ましてや黒人の子。すでに隣人たちは、彼女を「クロンボ好き」と呼んでいた。男のほうは強姦魔と呼ばれた。デビーの家族はウィスコンシン州に戻らねばならず、彼女は、学校を1年休学して赤ん坊を産み、それからその子を手放さねばならなかった。それが彼女の背負うべき十字架。赤ん坊を里子に出せば、彼女は新たにやり直せるかもしれない。神がお許しになるのであれば。彼女の両親と神父にとって、これが関係者全員のために最も合理的で思いやりある対応なのだ。

トリシュ

カナダ人家族によってベトナムから養子に迎えられたとき、トリシュは19ヶ月だった。40代のいま、彼女は実の母について何も知らない。子どものころ、里親は実母について様々な仮説を提示した。孤児院の階段にやさしく赤ん坊をおろし涙ぐむ母親、といった感傷的な説もあった。もちろん、彼女は、愛する娘が尼に発見され、安全に中へ連れていかれるのを遠くから見ているのだ。父親もそこにいたかもしれない。自らもずっと涙をこらえながら、我々は正しいことをしているのだ、と愛する女性を励まして。トリシュの行儀が悪いときには、怒りにまかせて、実母は米軍兵士に孕まされたヤク中の売春婦だったなどという説も出てきた。思い返せば、トリシュは、これらの仮説すべてはただそれだけのものだとわかっていた。ただの仮説。里親が同時に抱える愛情と悔恨の表れ。愛情と悔恨、これは彼女が里親に感じるものでもあった。家族のまさに根幹をなすかのような、絶え間のない緊張関係。他の人にとっては自然に身に付くものである緊張も、彼女にとっては自らが選んで身に付けたものだった。トリシュが実母について考えることはほとんどなかったが、たまに考えるときには、実母が手放した赤ん坊に悔恨も愛情も感じていないことを願った。ただ無関心であってほしい。遺伝的なものであればよいのに、とトリシュが願っている、家族というものへの無関心。

カール

カールは、自分の住むアイオワ州の中都市で開かれる中絶反対の大きなデモにはすべて参加した。 彼は、デモの主催者でもなければ、中絶病院に対する日常的な封鎖運動に参加しているわけでもなかったが、信奉者であった。それも熱心な信奉者。生命のかけがえのなさを信じる者。カールは50代で、自称、たちの悪い酔っ払いの息子だった。その結果、彼自身は決して酒を飲まなかったが、陰ではやはり家族につらく当たった。この父にしてこの息子あり。風雨にさらされた彼のプラカードにはゴシック体で「中絶ではなく養子縁組を」と書かれていた。何年も前、娘の一人に書かせたものだ。やがて彼女はカールの政治的立場に異を唱えるようになり、抗議者たちの封鎖を越えて地元病院へ通う女性たちに付き添うボランティアに参加して、家族に亀裂をもたらした。敬虔で信心深いカールの母が、未婚でカールを妊娠したという長きにわたる秘密をカールが明かしたのは、娘との口論の最中であった。「おばあちゃんが中絶なんかできていたら、私はここにいないんだぞ」と彼は叫んだ。「そうならなかったことを、毎日神に感謝しているんだ!」突如、彼女は、カールの政治的立場を、彼には理解しようのない視点で理解した。彼が中絶に反対するのは、妊婦や胎児のためではなかった。それは彼自身と彼の自己防衛感のためだった。世界で一番我が身が大事という、ありきたりで自分勝手な考え。母よりも大事な我が身。


 
エンジェル

エンジェルはまだ19歳だったが、もう3人目の子を産もうとしていた。前の2回と同じく、今回の妊娠も意図せぬものだった。神の恵み。フィリピンにおける避妊と中絶の文化的禁制が彼女にもたらした、3回目の神の恵み。村の衛生局からは、子宮の疲労に気を付けて妊娠の間隔を2年あけることが大事であるとアドバイスを受けただけだった。エンジェルとボーイフレンドは2人とも職がなく、病院での出産費用を払えなかったので、産婆の伯母に分娩に立ち会うよう頼んだ。エンジェルが産気づいたときには万事順調にみえたが、日が経つにつれ、明らかに何かおかしかった。でも、伯母は問題ないと自信を持っていた。奮闘の末、赤ん坊が出てきたが、続いて川のように途切れなく血が溢れ出て、エンジェルは意識昏倒に陥った。姪を最寄りの病院へ運び込むため、伯母は直ちにオートバイ・タクシーを呼んだ。すぐにマフラーのひび割れたオートバイが轟音を立ててやってきた。十代の少女のぐったりとした血まみれの身体がサイドカーに乗せられたが、オートバイのけたたましい金属音も、家族の悲鳴をかき消すことはできなかった。この大騒ぎのなかでも、彼女は起きなかった。

ジーニー

ジーニーは57歳で妊娠していた。三度目の妊娠検査薬でも陽性と示されるまで、彼女は妊娠を本気では信じなかった。世界は、悪趣味な冗談で私をからかっているのか?幾多の内省と、夫や産婦人科医との話し合いを経て、彼女は赤ん坊を産むことを決意した。12週を過ぎて、彼女は家族と友人にそのニュースを伝えた。彼女の妊娠を巡って興奮が高まり、周りに伝染していった。皆が集まってきたが、ジーニーの確信に満ちた様子をみて、彼らの懐疑心と不安は次第に揺らいでいった。一番下の子が家を出てから、空っぽの寝室は夫の書斎になっていたが、彼はそこを再び子供部屋とするために模様替えまで始めていた。妊娠17週目、彼女はトイレに座り込み、便器に大量に下血していた。パニックのなか、彼女が妹にLINEでメールしたところ、妹からは、救急車が到着するまで、タオルを両脚で挟んできつく足を閉じておくように、と返信があった。(うさぎのコニーがクマのブラウンを抱きしめているLINEのスタンプ)(救急車の絵文字)(クマのブラウンが退屈そうに時計を見ているLINEのスタンプ)

タキ

タキの古い日本家屋は、いまだに汲み取り式便所を使っていた。1年か2年おきに、そういった便所で女性が出産したというニュースがあった。最近では、岡山県の女性が、産まれたばかりの赤ん坊を汚水漕から救出してほしいと消防署に電話した事件があった。その女性は、赤ん坊が穴に落ちるとともに、胎盤が乱暴に引っ張られて怪我をするまで、妊娠には気づかなかったと言い張った。2人とも無事だったが、そのときタキは、なんと馬鹿げた話かと思った。その女は、赤ん坊を殺そうとしたが途中で怖くなったのに違いない。そうでないと筋が通らない。多くの人々と同じく、タキもまた、2500人に1人の妊婦が「妊娠否認」を経験し、産気づくまで妊娠に気づかないケースもしばしばあることをわかっていなかった。陣痛後も気づかないことすらある。いま、タキは、岡山の女性と同じく汲み取り式便所に座り、同じく便秘によるものと思い込んでいる苦痛で前屈みになっていた。彼女には、自分が無自覚のまま妊娠していることを示すすべての兆候が認識できなかった。ショックで感覚が奪われた。岡山の女性と異なり、タキは、赤ん坊が出てきた後も、何が起きているのか気がつかないままだった。赤ん坊は下に落ちたが、赤ん坊が通り抜けるには便所の穴は狭すぎた。もし赤ん坊が音を立てたとしても、タキの精神状態では聴こえはしなかった。12分後、胎盤が排出された。彼女は立ち上がり便所ブラシを握ると、血まみれのネズミ取り器を空にするかのように、神経を奮い立たせてこの邪魔なものを穴に押し込んだ。

アダム

アダムは13歳の少女をレイプして妊娠させた。それでも、彼の伯父は大丈夫、問題ないと請け負った。チュニスの警察はアダムを訴追したが、彼が少女と結婚すれば、少女の家族は彼への訴追を取り下げさせるだろう。伯父は、少女の父親に、アダムが牢屋に入ると少女の家族の恥辱と苦難はより大きくなることを理解させた。アダムと彼女の結婚を認めることで、誰もが得をする。結局のところ、アダムは20歳の健康な働き手で、立派な若者だった。結婚によってアダムと裁判所の関係は正常なものになるだろう、と伯父は言った。アダムと神の関係、アダムと少女の関係も。アダムの子はきっと少女を癒すだろう。確かに、家族を始めるにあたって理想的な方法ではなかったが、それもひとつの方法であることは誰も否定できない。伯父は、どこでも親はたいてい、娘が早くに家庭に入ったら、その結婚生活を応援するものだと言った。「もっと子どもを作るんだな」伯父は励ますように微笑んだ。「大家族になれば、皆が元気になるさ」。アダムは伯父に感謝の念を伝え、たくさん子どもを作ると約束した。


 
ケイ

ケイは、日本の大手企業で働くネットワークエンジニアだ。彼女が性転換を始めたのは、もうすぐ40歳のころだった。男性として結婚して2人の子の父となり、順調にキャリアを築いた。現在、彼女はその会社で、あるいは同規模の会社のなかでも、仕事を続けながら性転換をする初めての人物となった。彼女はテストケースであり、彼女だけでなく、今後何世代にもわたって影響が及ぶ会社の先例となるものだった。それゆえ、万全を期すことへのプレッシャーはとてつもなく大きかった。性転換が法的に完了したら、彼女は別の部署に異動となり、同僚との間で女性として新たな社会関係を築く機会が与えられるだろう。彼女の特殊な事情は、上級管理職にしか知らされていない。対照的にケイの妻はそこまで融通が利かなかった。嫌悪感と裏切られた思いに圧倒され、妻はすぐにケイを家から追い出して、離婚訴訟を起こし、子どもたちとの物理的接触を禁止した。ケイに許されたのは、月に1度、子どもたちと電話で話すことだけで、それは父が女性になりつつあることを子どもたちに悟らせないためであった。最初は実行可能に思えたが、女性らしい声の訓練とホルモン治療が進むにつれ、彼女は、電話のたびに以前の声を取り戻すのに苦労するようになった。ケイは逞しい男の顔を作って鏡をのぞき込み、何度も何度も繰り返した。「やあ、パパだよ」

ケビン

お話の時間が終わったあとも娘の部屋に長居するようになったのは、ケビンが31歳のときだった。娘は10歳になっていた。初めての夜、彼は酔っておらず、ただ疲れていただけだった。いつものように娘に読み聞かせをしながらうたた寝をしたが、目が覚めたとき、彼の身体は娘の身体を抱きしめながら興奮していた。何も考えずに、彼は寝ている娘の脚に硬直した陰茎を押しつけて擦り続けた。大したことじゃない、とケビンは自分に言い聞かせた。もう数か月経つと、彼は自分のものを娘に手で触らせるようになった。これ以上はだめだ。ケビンの頭では、これは性的虐待ではなかった。自分は性的虐待なんかできる男ではないと彼は信じていた。娘も怖がってなんかない。大きくなればきっと覚えていない。何を覚えているというのか。何てことはない、と彼は思った。ただ触れるだけ。レイプだなんてとんでもない。子どものころ、ケビンはレイプされたことがあった。彼にわかっていることが一つあるとすれば、それは、彼にはこの小さな娘をレイプすることなど決してできないということだ。

ユウコ

セックスが終わる前から、ユウコは自分が妊娠したことがわかった。翌週には乳房が痛くなり、急上昇した女性ホルモンが、欲しくなんかなかった、計画してもなかった子を産むよう説得し始めた。その感情は、あまりにも化学的かつ人為的で、何かに操られている感じでもあり、そして自暴自棄なものであった。何年もの間、月経前の気分変調に苦しんできた身として、彼女は、ホルモンが自己を定義づけるとの考えを憎むのが常であった。私生活上も仕事上も、自分がヒステリックで情緒不安定な人物であるとの烙印を押されるに至った原因がホルモンにあることはわかっていた。そしていまや、ホルモンのせいで、自らの意思に反して、27歳のシングルマザーという烙印を押されようとしている。どうしてほかの人よりもずっと、このホルモンの波の流れに人生を支配されてしまうのだろうか。彼女は電話をとって、婦人科の番号を回し、中絶手術の予約を入れた。

 

 

不産主義、第2章
苦しみのもとを認めよ(そして立ち去れ)
ゲイ・ポルノのための音とテキスト

翻訳:吉田泉。

時間はない。前戯は省かなければ。いったん不信の留保を要する人もいようが、まずは次の2つの前提に心を開いてほしい。

第一に、子を持つことは非倫理的である。

第二に、家族は民主主義を不可能にする。

第一の前提は二通りに解釈できる。一方で、倫理を欠くとの意味で非倫理的である。子を持つことは、本質的に、倫理的あるいは道徳的なものではない。それは単にでたらめな生物学上のプロセスに過ぎない。いかにでたらめかというと、避妊に関する情報の流通とその利用可能性の歴史的水準にかかわらず、世界中の妊娠のうち40%が意図しないものであるほどだ。他方で、間違っているという意味でも非倫理的である。私はいずれの見解にも賛同するが、いかにしばしば子を持つことこそが人生の目的であると説かれるかを考えると、後者を支持したい。この糞みたいな世界にまた一人人間を送り込むことは非倫理的であると容易にいえる。まったく見も知らぬ人間に対して、どのような身体で産まれてくるかも含め、その件に関する選択の余地を与えないまま、涙と依存と苦痛と暴力と残酷さと不公正さと貧困と偏見に満ちた人生を押しつけようと画策するなかで、親は思いやりのない人間になる。退屈や淋しさ、あるいは年老いたときに介護に尽くしてもらおうと望む気持ちから親が行為に至っている場合は、特にそうだ。他の皆と同様、人生の数多くの局面で過ちを犯すにもかかわらず、自分勝手にも、他者が自分に対してだけは特別に何十年もの依存を強いられるのをよしとし、それを甘受すべきであると思いこむなど、一定の倫理的な規範からすると、その人は無責任で人の善意に付け込む人物といえる。つまり悪いやつ。

第二の前提に関していえば、家族という社会構造は、それが人身所有・強制労働・性的ファシズム・性差別・性的搾取といった問題から逃れられないゆえに、民主主義を不可能とする。これは、どのような形態の家族についてもいえることだが、特に家父長制の家族についてあてはまる。家父長制の家族は、脱農業化した社会関係を常に支配しているため、過去、現在、未来にわたる民主主義的または平等主義的なプロジェクトはすべて実現不能となり頓挫する。この事実は、民主主義といえば絶え間のない誕生、成長、青春を想起する典型的な連想と矛盾するものである。しかし、現実的にはそれらは破綻したプロジェクトに過ぎない。

これが私たちの出発点だ。子を持つことは非倫理的である。家族は民主主義を不可能にする。議論の余地はない。それは繁殖と家族というこの世界の力学に過ぎない。これをひとまず受け入れてほしい。例外はあると口を挟んで、ほぼ確実に言い訳がましくあなた自身の家族の話を始めようとする衝動は抑えてもらいたい。すぐにこれらの考えを否定して、ことを複雑にしようとする衝動は、社会的な条件反射だとみなしてほしい。この条件反射のおかげで、あなたや私、つまるところ私たち全員は、繁殖と家族を最も重要視する文化を批判的に分析できなくなっているのだ。悲惨な暴力に満ちた家庭は例外であり、幸せな家庭が標準であると断言する脊髄反射的な性向は反転させようではないか。共感を持とう。

子供がいる人は、そもそも子供を持って後悔していると認めても、タブーを破ることにならないとひとまず信じてほしい。調査の示すところによれば、感情面、物質面、性的側面で生活の質が落ちることを経験せずに済む数少ない両親は、ほとんどの場合、最初から豊かで満ち足りていた。それはあなたではない。あなたはがんばった。こんなはずではなかった。結局のところ、あなたのDNAは特別なものでもなければ、世界が必要とするものでもない。そして、そう認めることは、あなたが実際のところ子供を愛しているとしても、決して子供への愛情と矛盾しない。もしあなたが子供を愛していないとしたら、そう認めるだけの勇気に称賛を贈ろう。

もちろん、子を持つことは非倫理的であるとの認識は、人々の繁殖を実験的に止めさせてみたいという欲求と混同されてはならない。その認識は、私たちのセクシャリティを道徳的に奴隷化し、男たちの息子どもを繁殖させるために宗教その他の制度を利用するという、何世紀もの間、社会の内に潜んできた皮肉を指摘しているだけだ。繁殖を是とする政策はあまりに強烈なものであるため、これを広範囲にわたって文化的に維持するのに必要となるフィクションは、文字通り聖書級のサイズを身に帯びることとなる。思い起こしてほしい。旧約聖書のなかで、神の「産めよ増えよ」との命令は奴隷たちに向けられたものであったことを。だとすれば、多くの人々にとって、繁殖には根拠なき盲信を要するというのは驚くべきことではない。子は自己の延長であるとの盲信。子の将来は自分の惨めな人生よりもましなものであるとの盲信。これと関連する自分勝手でナイーブな盲信。ミンチ製造機の中にあって、私たちは、その歯車のためにより多くの肉を生産するのは正しいことだと自分自身に言い聞かせ、肉を与えず歯車を役立たずにすることのできる自分の能力を否定する。

実際、日本などにおける人口の減少は、肉が与えられないとき、持続的な成長をうたう資本主義の欠陥ある数式は崩れ去ることを示している。1世紀以上もの間、マッチョで急進的な左派は、資本主義を崩壊させる手っ取り早い方策を探し求めたが、ジェンダーの壁に阻まれ、最も効果的で非暴力的な解決策は女性たちの手のうちにしっかりと存するという事実には目を向けることができなかった。明らかに、革命的なプロジェクトは、いかなるものであれ必然的にフェミニズムに基づくものでもあるはずである。同時に、資本主義に先立つこと数世紀にわたる世界中の固定化した家父長制を克服できなかったことを考えると、残念ながら、まさにそういうわけで革命は実現しないのである。

先進国が人口減少でパニックになる一方、この惑星はすでに支えきれないだけの人口を抱え、私たちの人数はいまもなお増加しているのが現実である。確かに、子供を持たないということは、子供を持つということよりも、はるかに多くの意識的な思考と努力と教育を必要とする。世界中で年間1300万人の十代が妊娠していることは、その証明である。それゆえ、出生率の低下を巡ってその地域が陥るいかなるパニックも、究極的には国境警備と移民を巡るパニックなのである。起源を遡ると移民にたどりつくという先進国自身の物語とは相いれない偽善的な方法でなされる、人々の流入に対する国家の取り締まりを通じたパニック。進化の過程で資源を求めて、アフリカから世界の他の地域へと境界などおかまいなしに自由に移動したという有史以前の人類の物語との矛盾。

統治国家が、移民の受け入れ政策を拡大させるのではなく、自らの遺伝子構造を増殖させる必要性に優先順位をつける場合、それは外国人恐怖症と人種差別のプロジェクトであるのが常である。それは繁殖による他者の排除である。その存在に社会が依拠しているところの他者。資源の収奪を通じた比喩的な意味、性風俗及び配偶者ビザによる文字通りの意味、両方の意味でのレイプの対象としての他者。それはかつて貴族に認められた初夜権の現代版である。繁殖の必要性を支持する先進国の文化は、先進国のライフスタイルがなぜ持続不可能なものであるのか、その社会物質的な現実の原因から政治的に気をそらしてくれるものとなる。反乱を起こす能力、つまり、核家族という押し付けられた不安定なライフスタイルとの関係で自分の立ち位置を変える能力から気をそらしてくれるもの。


 
言うまでもなく、先進国における出生の低下は、その国の文化における性的な自己決定と避妊方法の利用可能性とに直接結びついている。資本主義が勃興し、より特権的な社会の構成員となるために、伝統的な農業を基盤とする家族の外部にある労働形態を選んで生存する能力が増すことによって生まれる可能性。19世紀における避妊啓蒙運動は、明らかに貧困撲滅キャンペーンと組み合わせられ、大家族と貧困との関係について教育するものであった。性と生殖に関する権利は、生命の抑制なき冷酷さへの倫理的な応答であった。私たちの先達は、小家族であること、あるいはそもそも子供を持たないことで、議論の余地なく、人生の質が経済的にも感情的にも性的にも向上すると自覚していたのである。

とはいえ、多くの人にとって、これは我がままに響くだろう。自惚れ。未成熟。実際、文化的にマクロのレベルからみると、先進国のライフスタイルは、まさにこれらの特性によって特徴づけられるものとして国際的に受け取められている。私たちの平等主義についていかに文化的なレトリックを弄しても、そうなのである。そのマクロな現実を国内で否定し続けるために採用されるのは、子供のいない個人を特別扱いして、そのような好ましくない資質を体現するものとして非難の的とするミクロの立場である。私たちは、自分自身の役割を果たさない「フリーライダー」の烙印を押されて辱められる。税金を納めて他の人々の子供たちのための公教育と社会福祉に貢献しているにもかかわらず。

実のところ、私たちのことを我がままだと非難する可能性が最も高いのは、家族について自惚れた幻想を抱いており、その幻想を支える極めて孤立した社会観や世界観を持つ人々である。彼らは、親としての本能は万国共通であるとの神話を信奉するが、その神話は、何十億人もの親が精神的に子を不具にし、打ちのめし、レイプし、飢えさせ、鎖につなぎ、親子の縁を切り、孤児にし、殺害してきたという歴史的な事実を集団的に否認することを通じてのみ、人々の琴線に触れ続けることができるのである。祖母と妹を含め、何世代にもわたって養子のいる家族の出身である私にとって、今日においてなお親としての本能を主張するなど相当な侮辱に思える。共感や思いやりの対象が血縁者に限られるとしたら、その人は相当に浅い人間だ。反社会的ですらある。論理的に考えて、それは伝統的な核家族の両親の間にあると想定される愛の絆とも矛盾する。その両親同士は血縁者ではないだろうから。

個人の自由と喜びを期待して人々が家族へと内向きになる一方で、彼らは、経済的に疲弊し、家族全体の公的な将来性を思い描けないということになりがちである。しかしながら、民主主義のレトリックを通じて、彼らひとりひとりの将来性は、あたかも紐に吊るされた紙幣のように絶えずその目の前にぶら下げられている。一方で、すべての「民主主義的なるもの」を自称する文化が存続していられるのは、例外なく、その人口の半分をわずかに超える数の人々が女性という性別に基づく下層階級に生まれて、無報酬あるいは相対的な低賃金に甘んじているおかげである。つまり、これまた低賃金である多数の男性と比べてもさらに低賃金であるということだが。

いかに両性の平等が語られようとも、現代の民主主義的な家父長制は、性別による階級の分断に戦略的に依存している。欲に駆られた実業家たちは、賃金の平等によって自分たちの得るべき利ザヤが破壊され、既に根底から借金まみれの私たちの社会がよりいっそう持続不可能なものとなり、最後には経済的な崩壊に至ることをわかっている。より重要なことに、賃金の平等は、家庭内労働の抜本的な改革なしには実現しえない。家事をしたらパパがお小遣いをくれるといった話ではなく、私的空間の外側において家庭内労働を完全に再分配し、再考すること。ママとパパの世界の外側。まさに家父長制の家族モデルを保護することによって、このような改革の起きる余地が確実に失われるのである。まったくもって、家族は民主主義を不可能とする。

これらのことすべてを念頭に置くとき、家族を称揚する大量のプロパガンダとともに、資本家による民営化と反社会主義運動が手と手を取って世界中で増殖しているのは、決して偶然ではない。英国の労働者を組織化したトニー・ベンの言葉を借りれば、入念に計画された「世界を常に支配してきた権力の復古」は、先進国の民主制において厳しい戦いの末に勝ち取られた社会福祉が破壊され、かつ、新興国の文化において社会福祉が完全に実現することは決してないと保証されたときに初めて起こるのである。そして、社会的扶助がなされるべき最初の場所として家族が再登録されることで、初めてこのような事態が生じるのである。あらゆる職業及び地位にとって、家族の価値が文化的に必要とされるのだ。次に、現代の同性婚推進運動についてみてみよう。

今日、同姓婚は、選んだ相手が誰であれその愛を公に表明する権利に関する倫理的な議論と受けとめられている。実際は、これは社会的特権の獲得に向けた現在進行形の闘争である。同姓婚推進運動は長い歴史を持つが、近年になってこれが可視化されたのは、主に90年代米国におけるHIV/AIDS行動主義の成果である。社会保障化された医療に伴う文化的な困難を受け入れたうえで、ゲイの男性たちの被保険者数を手っ取り早く増やすためのその場しのぎ解決策として、努力を向ける先が配偶者の権利確立へと必死に変えられたのだ。同姓婚の法的な承認によって、配偶者としての保険加入のほか、家族として病院へ見舞いに行く権利、パートナーが無能力となった際に医療上の意思決定をする能力、パートナーの死後もその名前で借りたアパートに住み続ける権利、子供の共同親権、その他多種多様な特権が同性カップルに与えられることとなった。

しかしながら、これらの多様な社会問題を全般的にホモ嫌いである公衆に受け入れさせることは、単に結婚という倫理的な権利に関するものとして議論を再提示するよりも、はるかに困難であろう。概ねそのような次第で、今日まで議論が枠にはまったままなのだ。あまりに枠にはまっているので、クィアの人々の多くですら、現在上演中の議論のなかにあるより広い歴史と論点を知らないでいる。この頃では、同性婚を支持することは、まるでリベラルな振る舞いであるかのようだ。公正な行為。常識的な感覚。一方で、そのような排他的な婚姻制度はまとめて廃止すべきであるという「感覚」は、ますます稀なものとなっている。その「感覚」のほうが、より思いやりある、倫理的なものだと思うのだが。

重要なのは、社会福祉の主な機能が、家族に依存することなく生存する能力を高めることにある点である。社会福祉は、少なからず、女性やクィアや第三の性の人々が家族からの絶縁や孤立といった目にあいながらも、生存のための苦闘を続けるなかで生まれたものである。現代先進国の一定の特権的なグループにとっては、基礎的な自立の獲得など大したことではないと思えるかもしれないが、歴史的に言って、それは新しく極めて急進的なものであって、いまだ世界の多くの地域においては、ほとんど思いもつかないものなのである。したがって、「ディスコはクソだ」というキャンペーンが、その奥にある人種差別と同性愛嫌悪というより広い文化的心情を覆い隠していたのと同じく、今日「福祉国家」に向けて当たり前のように発せられる罵倒の声は、その奥にある多様性や女性が自立して男性に依存せずに生存する能力への反感、そして、社会的に疎外された性と性別の除け者が経験する貧困を覆い隠すものである。

特に性と性別の除け者に関していえば、既に不十分な社会福祉がさらに後退することを受け入れさせるために、いかなる説得が文化的になされるであろうか?もっとも簡単な選択肢は、異性愛規範性のなかの厄介者である私たちに対して、自分の一族のもとへ帰るよう勧めることである。私たちとその一族との法的関係の公式化と再規制を伴う故郷への帰還。リベラルな人道主義の文化は、私たちに異性愛者であることを要求する必要はないと認識している。ただ、私たちに異性愛の規範を守るよう求めるだけである。これが今日の主流な「クィアの時代」の根底にあるものである。ビジネスの文化は、私有財産、フルタイムの労働、与信と債務、抵当権の設定された自宅の所有、家族、そして兵役といった共同体の目標が公的に維持されている限り、大半の性的指向には何の問題もないことを理解している。

私たちの多くにとって、ついにアメリカンドリームへの参加が許されるという見通しは、世紀の取引のように響く。結局のところ、誰もがそうであるように、私たちも、同じくでたらめな願望を内面化するに至っている。そして、生まれながらの創造性という根強い神話にもかかわらず、私たちの想像力はほかの皆と同じように乏しいものなのである。エイミー・グルックマンとベッツィー・リードが90年代半ばには既に見て取っていたように、クィア・ネーションの「私たちはここにいる。私たちはクィア。それに慣れろ」というスローガンは、ストレートの人々の道徳観、家族観、政治観を拡張させることをいったんは期待させたものの、企業による受け入れの恩恵を受けたクィアたちは、すぐさま世界に向けて「私たちはここにいます。私たちはあなたたちと同じです。ご心配には及びません」と約束するようになった。

同性婚という抜け道を作り出して活用しようとする私たちの自暴自棄なその場しのぎのプランは、クィアを充足させる万能の解決策としてイデオロギー的に吸収され、反転され、私たちに売り戻された。たった数十年前、私たちは主に非犯罪化のために闘っており、そのプロジェクトが端緒についたとは到底言い難いにもかかわらず、いまや私たちは自らを法的に再規制するよう要求する傾向にある。私たちは、婚姻を人間の束縛として認識する立場とは対照的に、人権としてそれを要求している。何世紀にもわたって私たちを押しつぶしてきた専制的な家族制度を破壊するときよりもずっと、私たちは婚姻制度を中心に組織化される。結局のところ、堪え難いまでに虐待的な父親の家父長的な愛は、そのような怪物からの自律よりも価値あるもののようなのだ。それ以外のどのような場所で得られる愛よりも、あるいは自分自身を愛することよりも価値あるもの。私たちのプライドTMについてはこのくらいにしよう。


 
その結果、フェミニズムとクィア論に基づいて家族の構造を批判的に拒絶することは次第に稀となる。その延長線上で、家族による虐待と家庭内暴力はより広義の制度化された支配の兆候であるとの理解を公的に示すことは、ほとんど不可能となっている。永遠に欠けているのは、意図的に親にならないこと、意図的に家族を棄てることが何を意味するのかという議論である。それらは、堕胎による解放を祝福しようという考えと同様、タブーのままである。堕胎により明らかに人間の苦難が避けられることを考えると、公式に祝福の場を与えられて然るべきなのだが。マーク・フェルが以前皮肉を込めて説明していたのを思い出す。「功利主義的な見地からすると、胎児が仮に一瞬の苦しみを経験するとしても、その苦しみは意識を持って一生を過ごすこととは比べものにならないくらい小さい。なので、その立場からすると、皆が堕胎をすべきというのが倫理的に正しいこととなる。」

型通りなほどおなじみかつ異性愛規範的なやり方で、現代のクィアの家族像の背後に予期されている可能性は、この世代が前の世代よりもよい親であることによって家族の虐待は解決されるであろうという自己中心的な考えにすぎない。家族内での人身所有という実体的な状態への急進的な取り組みは、子供の正しい育て方を見つけようという幻想に置き換えられてしまう。私たちには養育能力があるという自己満足的な主張が公になされるのは、私たちが伝統的な親としての思い上がりに駆られているためだけではない。悲しいことに、子供に対する性的搾取者であると歴史的に烙印を押された私たちに、実は子供の世話をする能力があることを世界に納得させたいという、より広い必要性にも駆られているのだ。それは防衛反射となっており、私は、クィアをテーマとするシンポジウムにおいて、著名なクィアたちがお互いの親としての優秀さを褒め称えあうのを目撃したことがあるほどだ。親として優秀かどうかは、親同士ではなく子供たちのほうがよりよく判断できると思うのだが。聴衆の側として明らかなことを言えば、私たちには世界を納得させる必要などない。また、親の自己満足が公に披露される場で自分が小道具として使われることに反感を覚えるのは私だけではないはずだ。

同性婚を通じた同性愛の再規制という支配的な傾向は、トランスジェンダーのコミュニティにおいて、本質主義者が耳も潰れんばかりに性転換を強調することと似通っている。性転換の経験についての一般受けする議論は、性転換した女性と性転換した男性のものに限定されているが、これはまさに、性の不一致に対するそのような二元論のアプローチが、異性愛規範的な女性/男性という二項対立と最もよく調和するからである。これは偶然にも、その二項対立に隷属する医療業界にとって最も儲けを生むアプローチでもある。多くの先進国の文化において、同性愛者の「治療」の人気が凋落したのとまさに同時期に、臨床的な「治療」を受けるトランスジェンダーに対して今日のような多大なる科学的・医学的関心が芽生えたのは、決して偶然ではない。何十億ドルもの研究費の支出先が、性的指向の研究から性差の研究へと変えられた。その間ずっと、異性愛規範性の変わることない臨床的な押し付けは促進された。

他のすべての形態を排除して、二項対立と調和するある特定のトランスジェンダーのモデルについてのみ医療制度を発展させるビジネスは、明らかに時代の兆候である。何十年もの間人々がその組織化の中心としてきた、より多様なトランスジェンダーの経験の上位に、性差の二項対立を再登録するというリベラルな人道主義者の振る舞い。米国でトランスジェンダーの理想形として売出中なのは、本質主義者であり女性への性転換者、経済的なエリートでドナルド・トランプを支持する保守派でもある、ケイトリン・ジェンナーである。トランスジェンダーの各論点に関する人道主義者の立法は、先例に倣って、自らの選択した性別に分類されることを求める権利に焦点を当てたが、それは、すべての人が性別による分類と法的に決別する能力とは対極のものだった。同性婚についていえば、本質主義者による性転換推進の運動は、規制撤廃に代えて規制の概念を再び売り込むのに積極的な役割を果たした。同時に、性転換せず投薬も受けていないトランスジェンダーの経験は、社会的に黙殺されて口に出すのもはばかられるものとなった。そのような経験はおよそ想定し得ないものとされ続けたが、その少なからぬ理由は、これが身分証明の否定という官僚制にとって究極に許しがたいタブーを呼び起こすからである。

これらすべてによってお膳立てされる子育ては、疑いようもなく残酷なものである。個性を育むべしという一般論をよそに、社会慣習への疑問を表明する子供たちは、常に医療の介入に出会うこととなる。アルコールとタバコの産業が、将来の消費者に仕立てるべく若者をターゲットとするのと同じように、若く不適合な精神は、特にホルモンブロック剤や抗鬱剤、その他性転換に先立つ臨床治療のターゲットとされる。熱心すぎる親が子供に基礎的なワクチンを打つことにますます懐疑的になる一方で、性の不一致の治療となると、脳やその他の器官の発育阻害といった極端な副作用も、取るべきリスクとされる。表面上、この治療は、自らの感じる女性または男性という存在になるための時間と場所を子供に与えるためになされる。けれども、二項対立的でない性の選択肢を欠くなかで、性の同一性に困難を抱える人が社会的に治療を強制されると、抑鬱状態に陥る傾向が示されると主張する人もいるだろう。社会的にみて精神に欠けているのは、それを通じて自らの身体を思い描くことのできる、家父長制的ではない自己同一性なのである。痛ましいことに、米国のそのような子供たちの70%は、20歳までにすべての治療を中止することを選び、しばしば、もし発育の阻害や方向転換を強いられなかったとしたら、いまごろ自分の身体はどのようなものであっただろうかという疑問を持ち続けるのである。

ネット上の「子を支援する」親によって書かれた数えきれないほどのブログでは、いかにトランスジェンダーの子から多くを教えられるか、と語られている。赤ん坊たちの口を借りた本質主義者によるトランスジェンダー論。このような親たちは、例外なく、幼児期を崇拝する生得論を展開しており、その純真さと無垢さへの典型的な心理的投影は、社会化される前の性に関する知恵にまで及んでいる。私にはこれはイデオロギーの反転に思える。私はこれらの証言を、子供の内なる知恵について述べたものではなく、子供を育てる異性愛規範的な大人の悲惨なまでの無知について述べたものと読んだ。たいていの親は、自身が内面化している二項対立的な自己同一性を始めとして、性の論点について非常に低いレベルの認識しか有していない。これはクィアの共同体についても当てはまる。この低い認識が積極的かつしばしば恫喝的な医療従事者による指導と結びつくとき、自らに貼られた性のレッテルへの不安感を表明する子供に対して、基礎的なフェミニストのツールではなく薬が与えられる可能性が高いのも不思議ではない。家父長制の拘束の中で課せられた性の同一性に人々が不幸を感じるのは、そう、もちろん当然のことなのだ、と理解するための手助けとなるツール。もちろん!これを理解するのは難しいことではない。無理やりドレスを着せられて足をばたつかせて泣き喚く小さな女の子は誰でも、既にその理解の途上にある。問題は、この事実の承認をよそに変化を拒む社会のなかにある。そして、対処と結束のためのフェミニストのツールが個人の健康に貢献するのは、まさにここなのである。フェミニズムは、個人的なことは政治的なことであると人々に教える。そうすることで、多種多様なその他の社会問題と同様、私たちの性と性別を巡る私的な苦闘の底には多くの公的な原動力が働いていることが明らかにされる。個人が抱く不全感・挫折感・恥辱感・罪悪感・違和感の理由を再構成することが可能となり、今度は、個人及び個人を取り巻く世界において、何が変わる必要があり何が変わる必要がないかという点に再びフォーカスが当たる可能性がある。これは単なる実存主義的な頭の体操ではない。フェミニストが社会的に組織化を進めた奥深い歴史は、不公平へと働きかけそして生き延びるための戦略を与えてくれる。

他方で、先進国の性に関するカウンターカルチャーは、ホルモンカクテルや外科的処置がタトゥーやピアスなどの身体改変の流行と大体同じようなものとして扱われるなかで定着してきた。その身体との関係の柔軟性は、主流派であるトランスセクシュアリティの官僚主義との関係で称賛に値する対比を提示したかもしれないが、多くのタトゥーやピアスのサブカルチャーと同様、そこにはトライバリズムや同族主義への耽溺が容易に見て取れる。タトゥーやピアスに関する近年の主流文化と同じく、トライバリズムと保守的な家族観が優勢なものとして復興することへの無意識の共鳴がここでも起きている。多くの性のカウンターカルチャーでは、オリエンタリズムの特質を身にまとった非西洋的、非ブルジョワ的な地域社会主義を再び思い描くエセ人類学が展開されている。それは、人々を部族的生活に縛りつけ、しばしば苛烈なまでに規範的である社会的制約の存在を否定するものだ。これらのカウンターカルチャーが貧困に喘ぐ第三世界の非二項対立的な性の経験から学ぼうとする試みを通じて、再文脈化という問題のある枠組みも作り出される。この試みは、しばしば公共医療制度を欠くか日常的に利用できないなかで実践される。もちろん、人々の自己決定に関する先進国の幻想を打ち砕くような、より自暴自棄でハイリスクで危険な第三世界における実践も漏れ聞こえてくるのが通常である。例えば、液化シリコンや脂肪などの化学物質を直接かつ抑制なしに皮下注射する方法でなされる身体の再形成。先進国におけるほとんどの自己超越の実行と同様、そこには、真の連帯も特売中の苦しみへの理解もない。これらの行動のなかから、先進国のプライドTMの保持に寄与しうるものが厳選されて、占有の対象となり吸収されるだけである。

先進国のカウンターカルチャーによって、しばしば制度に対抗するための尊厳が喚起される一方で、それが最も可視化され組織化されるのは、まさに西洋文化による制度化がなされた場である。特に大学と美術学校。クィア論とジェンダー論を学ぶカリキュラムと展覧会とアーカイブは、夢描いた文化的な自己実現の能力を褒め称えてその気にさせる研究発表の場となっている。国際資本文化の他の部門すべてと同様、彼らは肯定感と希望を若者向けのマーケットに売りさばく。もちろん、この楽観主義は、経済的には大学における求人と研究職の維持のために要請されるものである。譲歩が内面化され、祝福すべき失敗の政治学を構成するまでになっている。組織的にリスクを取って関与することなく、失敗の反抗的な魅力をパンク風に賞賛すること。訳知り顔のウィンクとともに、私たちへの暴力的抑圧の分析は、「痛みなくして得るものなし」という体育会系のスローガンと同義のものとなる。偽善的な道徳性と自己検閲のリボンに包まれた結果、自らを「性転換者」だとか、あるいは「トランスジェンダー化された(transgendered)」と「受身形(-ed)」で描写することすら、他者への攻撃であるとのレッテルを貼られる。他方、再び割り当てを受けた「クィア」との用語は、性と性別に関する蔑視の用語としての歴史をよそに、どういうわけか魔法のように受け入れられたままである。私自身が利用するときにこの用語を再び割り当てて使用する価値がそもそもあるとすれば、その唯一の理由は、現在進行形の蔑視の歴史にこそあるのだが。重ねて、プライドTMと新たなトライバリズムに固執するカウンターカルチャーが、現代の特にこの時点において制度的な支援と資金援助を受けるというのは、偶然以上のものに思われる。逸脱の壮大な意図にも関わらず、主導的なカウンターカルチャーの実践は、反民主主義的で家族との親和性の高い現代的な反動の典型例であり続ける。

不必要に率直な批判のように聞こえるかもしれないが、私たちの批評運動の無意識な兆候が示す側面を認識すると、避けようのないことに思い至らざるをえない。勝ち目はない。共産主義者の描くユートピアは影も形も見えない。革命は手に入らない。家父長制的な家族による世界的な抑圧の締め付けはあまりに強い。したがって、熱意がかくも崩れるなかで自らの主張を貫くには、自分が民主主義的で平等主義的なプロジェクトと協働することが何を意味するのか、徹底的にもう一度考える必要がある。従来の民主主義モデルが目的論的な増殖の概念に根差してきたとすると、おそらくは、より意味のある時宜に適ったモデルによってこそ、多くの人の目には狂ったように見える熱意を認識できるかもしれない。家長、王様、父親を殺したいという反家族、反伝統的な狂気。西洋の近代性の中心に存在しており、西洋の外にいる多くの人がすぐさま感じ取っていた、脅迫的な狂気。歴史的には新興の立場から、ロラン・バルトとその同時代のフランス文学者が、家父長制的な作者なる人物は死んだことを哲学的に明らかにするよりもずっと前から存在していた狂気。

平等主義の論理を使うならば、階級制に根ざした家族は、性的表現、繁殖、共同体の持続、そして自己の持続のために文化的に認められた場として完全に時代遅れのものである。それは性的な権力と抑圧の場であって、公正さや平等の場ではない。血縁の場であって、社会的自由の場ではない。統治の委任の場であって、国民投票の場ではない。決められた役割の場であって、不確定性の場ではない。生まれる前から、人々には、この世界に生まれてくるか否か、あるいはどの身体でどの階級に生まれてくるかについて選択肢はない。かくして、子供たちの潜在能力と移動性の可能性は、依存性の植え付けという現実によって常に暗い影を投げかけられてしまう。家族は、封建制の王国のミクロ版、反民主主義的な社会組織の典型例であり続ける。なおかつ、現代の西洋民主主義の価値は慣習的な部族を基礎とする広大な家族構造と明らかに対立するにもかかわらず、「家族の価値」はほとんどの先進国における政治的なレトリックとメディアの中心に存在し続ける。多くの第三世界の文化において、先進国は自らの反家族的な傾向に目を閉ざし続けるためにほぼノイローゼに等しいレベルでの否認を要しているとみなされているが、その理由は、その後に生じた偽善をみれば容易く理解できる。

狂気のさなかにあって、核家族は、自らが痴呆症のように再構築した近親相姦のタブーを取り入れる。奇妙なことに多くの人は気づいていないが、近親相姦の緊張が歴史的レベルまで増大するのは、核家族の内部である。叔母、叔父、いとこ、はとこなど様々な親族からなる拡張された家族形態は、同じ屋根の下での交合を遠ざける。父母よりも遠い関係の血族との間での性的なやり取りは、しかめ面こそされ、文化的に受け入れられる余地がある。例えば、たいていの文化において、いとことの結婚は許される。対照的に、親二人とその直系の子のみからなる核家族においては、両親の間でなされるものを除いて、すべての性的交流は明白なタブーである。その性的な制約のなか、核家族は、想像しうる限り最も激しく抑圧的で融通の利かない性的な家族の集まりを体現している。明らかに、家族というものが民主主義的な道理に適わないものとなればなるほど、内面化された抑圧の構造はより途方もないものとなるに違いない。

伝統的なやり方であるが、近親相姦の可能性のこの激しさは、家族の価値と性的な礼節を説く道徳のレトリックの激しさと合致する。キリスト教一家の元型の中心にある虐待的な権力関係を考えると、気が遠くなるほどの聖人面をした道徳。伝説によれば、自らを万物の始まりであり終わりでもあると自己陶酔的に宣言した家長である神なる人物は、非嫡出児アダムを産ませた。それから神は、息子と肉体的な交流を持って近親相姦的に娘のイブを作ったので、アダムはイブの父であると同時に兄でもあった。子供たちは教育を否定され、世界中で近親相姦的に人口を増やすことを奨励された。子供たちが許可なく父の持ち物に触れたり勉強したりしようとすると、父は怒り狂ってその子を蹴っ飛ばしてその地所から追い払った。それから数千年にわたってその庶子たちを無視した後、神はもう一人の子をもうけるべく戻ってきた。それはどうしても男の子でなければならず、その子は迫害の人生を送ったのち残酷に殺されることが計画的に意図されていた。その問題について世界の女性たちの言い分を聞くこともなく、彼はマリアという名の若き処女を母となる者に選んだ。それから彼は取り巻き連中の一人を真夜中に送り込んで彼女の元に忍び寄らせ、彼女を脅してすぐさまレイプさせた。彼女は神の子の末裔であり、その時代を考えるとおそらく16歳未満であっただろうから、処女マリアを妊娠させたレイプは、近親相姦でありかつ小児性愛でもあった。アダムとイブのときと同様、またしても神は罪を犯した父であった。彼の親としての責任は、女々しく骨抜きにされたヨセフに委ねられた。アニメ「アメリカン・ダッド」に出てくるエイリアン、ロジャーの言葉を借りれば、「キリスト教、それは俺のお気に入りの怠け者パパのお話。見てみろ、父なる神は、この子を作って、そして立ち去った。それからその子が有名になったら、一緒に暮らさないか、ときたもんだ。シャキール・オニール(シャック)の身に起きたこととまさに同じさ。シャックも『俺の生物学上の由来なんて、どうでもいいさ』ってタイトルのラップを歌ってるだろう」。このような寓話が自身の家族についての時代を超越した道徳的な実例であるなどと何百万もの人々が思い込んだままでいるためには、集合的な否認が必要であることを考えると、仮にトラウマの一種だとしても、これは容易に取り除けるような文化的なトラウマによる抑圧などではない。


 
家族関係が廃止される見込みはないことを認識し、容赦ない信念の転向を余儀なくされた数世紀を受けて、暴力の減少へと捧げられた急進派の民主主義的なプロジェクトは、転向に基づく組織化と距離を置くことで充分に報いられるはずだった。転向は、家族制度を共同体に置き換えるという古い左派の幻想の背後にあり、例えばポピュリズムへの訴求においてほぼ新保守主義といってよい日本共産党のように、新たな左派が家族に親和的なアジェンダを採用することに引き継がれている。いずれの左派も、家族に対抗するものとなる場や社会福祉を組織しようと思い描くことはしない。これらの組織は、現在進行形の家族制度が抱える問題に必然的に伴うものと解されており、なおかつ、その家族制度と同時に生じるものなのだが。もちろん、社会福祉のレトリックの大半が、いかに家庭の役に立つかを論じるなかで、家族に対抗するものとなる場を思い描くのは信じられないほど難しい。特に片親で貧困にあえぐ家庭への支援が担う役割。社会福祉は、家族による支援が不十分であるときにその格差を埋めるための手段としてのみ想定されているが、そういった見解はすべて、社会保障が家族の絆からの明示的な解放をもたらしうるという概念を分かりにくくするものである。不公正だ。胸が張り裂けることですらある。これでは大衆の買い手など決してつかない。

その少なからぬ理由は、異なるメッセージを私たちに売りつけるべく、市場調査員たちが残業してまで働いたからである。資本主義は労働者の平等によるよりも奴隷制によるほうがうまくいくことを財界のリーダーたちは理解している。西洋の奴隷制の歴史からも、また、今まさに非民主主義国家において資本家による事業が拡大していることからも証明されているように。現在、強制労働の犠牲者は世界で2100万人にのぼると見積もられている。多くはひどい労働条件のもとに囚われの身であり、しばしば自らの捕獲者に在留資格の書類を握られたまま異国にある。性風俗の世界では、人身売買が毎日2000人以上もの人々の人生を奪っている。奴隷一人の購入に要する平均的費用は1万円である。

南の発展途上国との関係では、先進国の労働者は特権的な屋内奴隷である。社会が強制する就労に対する賃金の支払いというやり取り、終わりのない借金、そして年老いて働けなくなったときの労働力の肩代わりを得るための規範的な繁殖、これらは要するに、コメディアンのジャスティン・ロイランドが「一歩進んだ奴隷制」と呼ぶものだ。先進国で最も裕福なのは私たち全員からの天引きを行っている者であることを理解もせず、私たちは、自分たち以外の世界の国々を、やっとの思いでかき集めた僅かなものを奪おうとする敵だとみなしている。怯えからくる私たちの強欲さは、我々自身よりもエリートたちの役に立つものだ。この強欲さによって、私たちは、自分たちが南の発展途上国よりもエリートたちに近しいと空想する。真実は逆であると認めるのを恐れながら、日々その側を通り過ぎるホームレスの人々よりも、手の届かないドナルド・トランプのほうが近しいと空想する。その間、今日のすべてのグローバリゼーションは、新たな民主主義国家の樹立をあからさまに欠くなかで進行している。

国と社会事業の時代は終わった。伝統的な国や国家の敵の大部分は、部族と信念の敵へと置き換えられた。冷戦はテロとの戦いになった。これらはすべて、家族や王朝制や生得権の文化的な力を再登録することと関わる。この再登録が要請されるのは、家族が、社会福祉の提供に加えて、社会的に決定づけられた関係を受容するために必要となる意識下の心理学的な土台をも提供するからである。奴隷制のための心理学的な土台。親が子を所有し、その反対に子は親に所有されるというトラウマに満ちた自覚を若年期に持つことが文化的かつ法的に是認され、その結果、私たちは皆、自分は誰かの所有物であるとの概念を内面化する。性と性別の二項対立に関していえば、この内面化は、私たちがその考えに同意したことを意味するのではなく、私たちの想像力がその二項対立に対して示す反応が条件付けられ、制約されるということである。私たちは、親による子の所有は私的領域へと付託された個人的なものであって、善きものであると考えたがる。私たちは、ある父や母の私的な子育てのやり方の悪い点のみを批判しがちであり、子育て自体の公的制度へと批判の対象を広げることはほぼない。しかしながら、私的領域が労働力搾取の場であると認識するのであれば、子育てとそのような搾取の不可分性も認めなければならない。これほどまでに私たちが他者に所有され、家族を所有しているということは、公的な農奴制と不可分かつ不可欠の関係にあるのだ。

リベラルな人道主義者によるグローバル化がもたらす反民主主義的な残虐行為の多くは、拡張主義的な傾向の産物として起こる。例えば、無責任で持続可能性のない景気の拡大を求め、消費の増大や好戦的な国境警備、そして人口の増加を求める声。これらは、資本主義のずっと前からある、産めよ増えよという深く染み込んだ古来の命令を現代風に改質したものである。その後に続く現代民主主義の倫理と実践の間の矛盾はあまりに極端なものであるため、ソビエト社会主義共和国連邦や中華人民共和国が決して共産主義のプロジェクトではなかったのと同様、グローバル化は民主化のプロジェクトではないことが明らかになっているほどである。グローバル化は、同様の技法を展開し、同様に極度の恐怖を生み出している。エドワード・スノーデンが暴露したビッグ・ブラザー風の監視、あるいは西洋による現代中東諸国の創出と分割、グアンタナモ湾収容キャンプにおける水責め、投機家に煽られた高級住宅地化を目的とする再開発計画が引き起こすコミューンの強制退去とホームレス化、利己的な工業による公害、無数の負傷とレイプと死をもたらす武器貿易などなどを考えてみてほしい。

このことと、人類は起こるべくして起こる目的論的な進化の過程にあるわけではないというポストモダンの理解とが結びつくと、情熱を持ってなされた民主主義の実践が、実は何か小さく奇妙で一風変わったクィアなものであると捉え直すことが可能となる。地球規模での転向というよりは、危害を減少させるための局地的な行為。拡張主義からのこのような能動的な断絶は、社会主義と共産主義の領域においてより急進的な民主主義を実践するためにとりわけ不可欠である。特に、歴史的に社会主義と共産主義の名のもとに成立した全体主義の遺産を拒絶するために。そして、このような認識の圧倒的大部分を占めるのは、民主制と成功とは両立しないとの気づきである。

なかには、これが先ほど批判したクィアによる失敗の政治学のように聞こえると考える人も確実にいるだろう。違う。この背後には、創造性や自己実現といった希望の兆しはないのだ。急進的なクィアへの検閲と急進的な民主主義の組織化への検閲とが複雑に絡み合っているとするならば、性転換をその組織化の比喩として捉えてみようではないか。歴史的にみて、性転換者による医療の利用可能性は、公的に性同一性障害(GID)との診断を受けることと密接に関連してきた。精神障害者や病人としての自己同一性を強制されることは、文化的な通過儀礼と受容の儀式となっている。それはまた、個人的な機運と標準化の手がかりともなる。失敗の政治学の唱道者たちは、目標の達成及び個人と共同体の充足との関係において、この機運を適切に配置する方法を見つけようと懸命に努力している。より広範な安全性と社会による受容への道。進歩と成就の概念にとっていまでも役に立つのは、楽観的な失敗のモデルである。転換の可能性を称賛すること。

もし正常化の称賛を拒否するとしたらどうだろう?健康であると認められたいのに病人としての自己同定を強制されるという暴力に応答するのではなく、健康であると認められるために、欲望を政治問題化することで応答するとしたら?家父長制のもとにあって、二項対立的な性の転換という反フェミニズム的な妥協が不可避であることにあえて動揺したままでいるとしたら?性の不一致との関係のすべてが、崩壊の関係だったとしたら?不適切な関係だったら?時間の関係であって、旅の関係ではなかったら?変化の関係であって、転換の関係ではなかったら?苦闘の関係であって、達成の関係ではなかったら?恥への応答として、プライドTMによることを戦略的に拒むとしたら?ここに提示するのは、現実主義者や反グローバリズム主義者や反人道主義者が厳しい顔で挑む民主的な取り組みのモデルである。

主流な性転換の戦略が、現代のグローバリゼーションの枠に収まるとともにグローバリゼーションの兆候を示すものでもあるのとまったく同様に、民主的な組織化は、文化的機運と精神病の間の極めて明白な関係性を通じて、時間と文脈に結びついている。この認識がいかなる機運を提示しようとも、それは正常化に関するものではない。希望の話ではないのだ。手元にある教訓は、やる気を起こさせるたぐいのものではない。それはニヒリスティックに状況と対峙することについての教訓。実際問題として、そこには、安全に一人で暮らすための場と公共事業を組織化することで社会的孤立の残酷さに対応することが含まれる。小市民の個人主義、あるいは転向に根ざしたコミュニティづくり以外の手段で個々のニーズの違いを受けとめることが求められる。家族/氏族/部族を所有することや、誰か一人に所有されることを意図したものではない手段。単純に、家族に縁を切られても生き延びる余地があるかという話。

先日、東京で電車に乗っているときに私はこれらのことを思い出した。車両は異性愛規範的な身体でぎゅうぎゅう詰めで、皆、押しつぶされて身動きも取れない。仕事と家の間で罠に捕らわれ、抜け出す余地もない見知らぬ人々。乗車は、ほとんどの人にとって性的なものではなく、数人の男性にとっては性的な捕食の機会であり、多くの女性にとっては脅威である。数年の間に二度、男装していた私は、酔ったOLに痴漢された。外国人男性のためだけに特に用意された、性の入れ替わった男っぽい手荒な扱い。私は電車を降りて子供たちで満員のマクドナルドに入った。壁には「欲しいものは何でも手に入るさ」とか「美しく、ありえないくらい美しくなりたい」などの力強い活字のスローガンが飾られていた。貪欲さと虚栄心を標準化するありきたりな資本主義の販促スローガンであるが、その文脈からすると、マクドナルドでは何でも欲しいものを注文していいよという、親から子へのありふれた約束に言及したものでもあり、また、ファストフードの食事では伝統的な美の水準に達することはありえないということの奇妙な告白でもある。子供の夢は何でも叶うというひどい嘘の変異版。現代人の多くが、倫理的というだけでなく、社会の健全な発展にとって必要なものと捉えている嘘。この嘘が無害なものとされているのは、子供の心が抱く夢は、等しく、その子が育つ文化の安っぽさを反映したちんけなものであるとの事実もあろうかと思う。とてもちんけで、にもかかわらず、それでも現実にはとても達成不可能なもの。レストランの壁面に囲まれて、食べるものを自分でコントロールしようとする子供たちの試みと、子供らにそれを食べさせようとする親たちの試みがあり、すべてはまるで役者たちの舞台のようだ。子を持つことがいかに非倫理的であり、いかに家族が民主主義を不可能にするかということに関する、手際の悪いブラックコメディを演じる地元の大衆劇団の一団。家族というものは、マクドナルドに立ち寄ること自体と同様、自暴自棄なその場しのぎのプランである。家族は夢の中でも最も因習的な夢の起源であり、いつの日かあなたはそこに苦しみのもとを認めて立ち去ることができるのだ。


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