terre thaemlitz writings
執筆

視力と聴力のフィルター
 
- テーリ・テムリッツ


「日本語教室文集2004」(日本:あいうえお会、2005年3月)

 

 
確かに、皆は自分の見たい事を見て、自分の聞きたい事を聞いています。
私たちの心は先入観から作られたフィルターです。
日本に、一つあるちょっと共通しているフィルターは、白人に英語を話さなくてはならないという圧力です。
例えば、アジアじん人や他の外国人には日本語を勉強する事をなかば強要しながら、
反面たくさんの日本人は日本で暮らす白人に対する時、英語で話さなくてはならないという脅迫観念を持ちます。
(もちろん、沢山白人の移民は英語が出来ません。)
このダブルスタンダードが日本の移民コミュニティーをしばしば分割します。
この問題の一部は、日本に英語を勉強することはポピュラーな趣味であるためです。
しかし、日本人が日本にいて日常生活の中で英語を使うことほとんどありません。
白人は英語を話す絶好の機会になります。
また別の問題は、日本語を話そうとしない白人の与えた悪い印象です。
 
その結果、私は、私が始めから終わりまで日本語だけを話していても、相手を日本語で会話させることにしばしば困難を感じます。
それは冗談のように聞こえるかもしれません。
でも嘘はつきません!!
私の日本語には限界がある事は知っています。
しかし私の日本語が明らかに相手の英語より上手であっても、まだ日本語で話をしてはくれません。
日本人が白人に対し英語を話さなくてはならないというプレッシャーが非常に強いので、
多くの人が、私が日本語で話していても、まだ英語で話していると思い込んでいるように見えます。
白人が英語で話すという「圧力(脅迫観念)」は幼年期から刷り込まれます。
通りで会う子供は急に「Hello!」とか、ABCの歌を歌ったりしますが、最初に普通の挨拶(例えば「こんにちは」)とか「日本語が出来ますか?」とかと尋ねる子供に会ったことがありません。
子供の反応が日本の文化の現状を明らかにしていると思います。
日本は自国の文化をグローバルであると考えたいかもしれないけれど、日本の社会には正確には移民という言葉に対応する概念はなく、それを自国の社会に統合してゆくという考えがまだありません。
 
私がパートナー(日本人)といる場合さえ、それは問題です。
彼女は、私を直接見ず、彼女に向かって話しかける相手と私が話している間、もっぱらその奇妙な会話の聴衆になります。
日本人である彼女の姿を見て、初めて相手は日本語で話すまたは外国人の話す日本語を受け入れる準備が出来るようです。
彼女の日本人の体は、私の日本語を伝えるための代理イメージになります。
 
この状況は、私がアメリカですごしたティーンエイジャーの頃の経験を私に思い出させます。
私の故郷は小さい町です。
また、ほとんど白人です。
私は高校へある用事で中学生の妹を連れて行きました。
妹は小さい時に韓国から養女となり、私の家族になりました。
私の祖先はドイツ人とイタリア人です。
だから私達は全然兄妹のように見えません。
私達が兄弟だと知らないクラスメートは私に尋ねました、「これは誰ですか。あなたのガールフレンド?」
「違う… 妹です」と言いました。
皆が真剣に私の顔を良く見ました、そして一人が「今まで全然気付かなかった。なるほど、あなた(私の事)は東洋人ですね。」と言いました。
 
やっぱり、皆は自分の見たい事を見て、自分の聞きたい事を聞いていますね。